エフェソ6:1-9

 神のしもべ 

2020年 6月 21日 主日礼拝    

『神のしもべ』

聖書 エフェソの信徒への手紙6:1-9 

 おはようございます。6月第三週は父の日です。父の日の由来はいくつかありますが、日本の父の日は、米国からの流れを受けています。 1909年にアメリカ・ワシントン州の女性が、男手1つで自分を育ててくれた父を讃えて、父の誕生月である6月に礼拝をもったことがきっかけと言われています。彼女の母親は過労が元で亡くなって以来、父親が6人の子供を育てました。当時すでに母の日が始まっていたため、彼女は父の日もあるべきだと考え、白いバラで礼拝を飾りました。

 今日は、父の日にちなんで、聖書の箇所をエフェソの信徒への手紙から選びました。

皆さんもご存じのように、エフェソによる信徒の手紙は、パウロがローマの獄中からエフェソの信徒たちへ「キリストの教え」に従って生きるように願って出した、最後の挨拶(手紙)とされています。

 

 さて、今日のみ言葉に入りましょう。

「子は、両親に従うもの」「奴隷は、主人に従うもの」と、当時としては常識と思われること。それをわざわざ話題としています。それを、パウロがエフェソの信徒に最後の手紙に書いた理由を考えてみたいと思います。

 

 まず、「父と母を敬え」ですが、もとは出エジプト記です。
出『20:12 あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。とあります。

パウロは、モーセの十戒の一つを取り上げて、「この戒めには、約束が付いている。そして、約束のついた最初の掟」と、説明しています。

少し十戒を復習してみましょう。掟そのものだけを拾うと次の様になります。

①20:3 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。

②20:4 あなたはいかなる像も造ってはならない。

③20:5 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。(わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。)

④20:7 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。

⑤20:8 安息日を心に留め、これを聖別せよ。

⑥20:12 あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。

⑦20:13 殺してはならない。

⑧20:14 姦淫してはならない。

⑨20:15 盗んではならない。

⑩20:16 隣人に関して偽証してはならない。

 

 こうしてみると、掟そのものに約束が付いているのは、「あなたの父母を敬え」だけだということがわかります。ですから、「約束を伴う最初の掟」と日本語の聖書に書かれています。最初なら二番目は?という疑問がわきますが、ギリシャ語の最初(πρώτη)と言う言葉には、最も大事な、主要なという意味がありますので、ここでは「約束を伴う最も大事な掟」と とらえた方が良いと思われます。

パウロは、モーセの十戒の中でも「あなたの父母を敬え」を、大事な戒めとしていたことがうかがわれます。そして、両親に対してもその掟につけ加えて、

「6:4 ~子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。」と、教えたのです。子供たちは、ありとあらゆる場面で両親の手助けが必要ですから、子供たちは両親の顔をよく見ています。そうでないと、両親の顔色が変わったりでもしたら、とても不安になるからです。ですから、子供たちは両親に従う場合に、必ずしも喜んで従ってばかりいるわけではありません。しかしパウロは、子供たちにいやいやではなく、むしろ「両親を敬い、積極的に従う」ことを教えています。両親の背後には、神様がいて、見守っているからです。そして、その子供たちの「けなげ」な態度を育てるためには、「主がしつけ諭されるように」両親が子供を育てることが必要です。そうパウロは、教えているのです。両親も、子供の背後に神様がいることを理解し、「イエス様がしたように、子供たちをしつけ、諭しなさい」。パウロは、両親と子供の関係は、私たちを諭すイエス様とイエス様に従う私たちの関係と同じように、ありたいと教えているのだと思います。

 

 次に、奴隷と主人のお話です。当時の奴隷は、「持ち物扱い」をされたようですが、主人にとって大変大切な財産だったことは間違いありません。ですから、一般的に、奴隷が粗末に扱われていたわけではありません。両親が子供を大切にするように、奴隷の主人は奴隷を大切にしていたのです。でも、中にはそうでなかったこともあったのでしょう。聖書の記事から、主人にうわべだけ従う奴隷もいれば、奴隷を脅す主人もいたことが伺われます。

 

 パウロは、奴隷に対しても教えました。

「キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。」

そして、主人には、「奴隷にも、あなたがたにも同じ主人が天におられ、ひとをわけ隔てなさらないのです。」 と教えています。

奴隷の上にも奴隷の主人の上にも、同じ神様がいます。天の神様にとって、奴隷も、奴隷の主人も同じ神様の民です。ですから、奴隷の主人は神様のしもべとして、奴隷に接することが必要です。また、奴隷は、主人に仕える時に、キリストに仕えるように心から仕える。そうすれば、神様との関係からは、わけ隔てのない一人と一人のしもべとなるのです。そうして、奴隷の主人と奴隷の間の新しい関係が出来ます。奴隷の主人も神様のしもべ、奴隷も神様のしもべとして、神様の前では、上下関係はないのです。

そして、子供たちと両親。子供たちは、両親の信仰とその行いを見ています。両親の姿、神様のしもべとなって神様に仕えている両親の姿を見て子供たちは育ちます。ですから、親は自分の持ち物のように子供たちを扱うのではなく、同じ神様のしもべ同志としての関係を持たなければなりません。両親は、まだ幼い子供たちを神様から預かっているにすぎないのです。そのように接していれば、子供達は両親の仕える神様に信頼して、積極的に生きることが出来るでしょう。

 

 聖書には、今日取り上げた「6:1子~親に従いなさい」「6:5奴隷~主人に従いなさい」の箇所のほかにも、似た様な時代遅れにも聞こえる言葉があります。

ペテロ2:18−19「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです」。

ペテロ3:1-2「妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです」。

 

 現代社会でこのような事を言ったとすると、あらゆる場面で批判されるでしょう。例えば、「弱いものの人権」や「差別」等と問題にされると思います。実際パウロら使徒の言葉は、現代人から見れば、立場の弱い者に対して「冷たい」と写るでしょう。しかし、現代はそのような立場の弱い者を大事にする社会に変わった とまでは言えないのが現実です。差別の問題は、今でも、世界のあちこちで続いています。

それでも、今の多くの労働者は経営者や会社を選ぶことが出来、多くの女性は夫を選ぶことも離婚することもできます。本人の自由意志で、選ぶことができます。そこには、「人はみな平等との意識」によるものに加えて、経済的に自立が可能かどうかも、あると考えて良いでしょう。

 

 経済的な面から言って、パウロや使徒が活躍した時代では召し使いにしても、妻にしても 主人に従わなければ、生活の基盤が危ういことは、容易に想像できます。たとえ、主人の手の届く範囲から逃げ出せたとしても、すぐにでも衣食住に困ってしまいます。ですから、主人と良好な関係を保つ努力が必要でした。生きるためには、仕方がないことです。しかし決して、「従わないと、生活にこまるのだから、ほかに良い方法はないのだから、あきらめて主人に従いなさい」と言う、生き方を教えたわけではありません。むしろ、「神を畏れるあなたがたの純真な生活」を積極的に見せなさいと、お勧めしているのです。

そして、たとえ召し使いの主人が無慈悲な主人だからと言って、主人の家から逃げ出すのではなく、神様を畏れながら主人に仕えていこう。そうすれば、無慈悲な主人でさえ、神様によって変えられる。そう考えると、「へつらうことも、うわべだけ従うこともいけない。今、ここに神様の導きがあると信じて積極的に従っていきなさい」と、聖書は教えるのです。・・・

それは、まさにキリストが、神様の導きに従っていたことと重なります。


参考(Ⅰペトロ2:19「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです」。)


 今日の聖書のパウロの言葉の一部を切りとって、「両親に、そして主人に仕えなさい」としてしまったら、両親と子(または、主人と奴隷)の一対一の関係性しかなくなってしまいます。パウロは、私と相手との一対一の関係性に、相手と神様の関係、そして私と神様の関係を加えて欲しかったのです。両親と子がいる以前から、そこに神様がおられて、神様と両親の関係、神様と私の関係があることを、パウロは言いたかったに違いありません。「主人と奴隷」の関係でも同じです。「主人と奴隷」よりも前に神様がおられて、主人も奴隷も神様と関りながら、神様に聞きながら、神様に仕え続けているのです。このような神様と二人の人間の関係が機能するには、各個人と神様の関係に注目したいですね。無条件に神様が見ておられること、無条件に神様の導きがあることを前提に考えると、各個人が神様に聞き、神様に従うかどうかだけが、良好な関係を作れるか、作れないかを決めてしまうということが、パウロの言いたいことだったと思います。

 このパウロの教えは、普遍的です。時代を超え、そして上下関係、力関係のあるすべての人との間にこのまま当てはまります。私たちは、ある時は親や主人のような「力のある」強い立場に立ちます。そしてある時は、子供や召し使いのような「声が出ない」弱い立場にあります。どちらの立場に立っていても、「神様のしもべ」であることを忘れないで欲しい。「神様のしもべ」として生きてほしい。そのような、パウロのメッセージです。 私たちも、「神様のしもべ」として、相手の人の後 にいるキリストに仕えてまいりましょう