2022年 11月 27日 主日礼拝
『救いの希望』
聖書 イザヤ51:4-11
今日からアドベントにはいりました。聖書は、イザヤ書からです。この預言書は66章までありますが、一般的に1-39章までを第一イザヤ、40章以下を第二イザヤ、56章以下を第三イザヤと呼ばれています。これは、もともと別の書簡ではないかとの考えから、それぞれ別の作者がいるという立場をとったものです。しかし、実際クムラン遺跡で見つかったイザヤ書は一巻にまとまっていたという事例もあり、イザヤは一人だったと言う説も有力であります。どうして、イザヤが1人説から3人説まであるかと言いますと、第二イザヤの部分から、ガラッと様子が変わって「救いの希望」に満ちているからです。
今日のイザヤ書51章は、第二イザヤと呼ばれている部分です。イザヤ書1章1節によると、イザヤはウジヤ王からヒゼキヤ王の時に活躍しました。ですから、アッシリアが攻めていたころになります。一方、第二イザヤの内容を見ると、エルサレム(聖書ではシオン)への帰還(52:8)が背景にありますから、バビロン捕囚時代の末期、つまり、ペルシャ王キュロスが新バビロニア帝国を占領するころの預言と考えられています。もちろん、一人の預言者イザヤが、アッシリアとの戦いからバビロン捕囚、そしてエルサレムへの帰還、イエス様までも預言したと考えることも可能であります。
ユダ王国は新バビロニア帝国に負け、国に住む多くの人々が4度(3回と数える人もいます)にわたってバビロニンに連れ去られました。つまり、新バビロニア帝国はユダの国を植民地としたのではなくて、略奪しつくしました。ほしいものだけを獲って、残りは捨てたのです。捕囚の民は、異国の地で主に建設工事のために働かされました。バビロンでの生活自体は、酷くはなかったようです。しかし、異教の地ですから、偶像礼拝を強要されるなど、神様の民として毅然として生きることは難しかったようです。そういう意味で、イスラエルの民は、今はもうないユダの国のことを懐かしむ以上に、捕囚されている現実を悲しんだのです。
イスラエルの民には、慰めが必要でした。その背景がイザヤ書にあります。
『49:14 シオンは言う。主はわたしを見捨てられた/わたしの主はわたしを忘れられた、と。』。神様に従順でなかった民は、神様に見捨てられたのです。
第二イザヤは、この捕囚の民に希望を語ります。そのために、この有名な言葉で始まります。
『40:1 慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。』
このみ言葉は、ヘンデルのオラトリオ 「メサイア」の最初の歌に使われています。ヘンデルは、ローマで音楽修行をしましたが、そのころオペラは贅沢すぎるとかの理由で、禁止されていました。それで、オペラの代わりにカンタータ(小規模な歌と管弦楽)やオラトリオ(演技、衣装、舞台装置の無いオペラ)の演奏が盛んになります。ヘンデルは、オラトリオをよく作曲していましたが、宗教的オラトリオは作曲したことがありませんでした。それが、メサイアの作曲依頼をうけたときに、この最初の歌の「み言葉」に感銘を受けて、一気にこの大曲を書き上げたそうです。
『40:1 慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。』
と、エルサレムへの帰還の約束を告げるイザヤ書40章1節は、神様が民に送った慰めの言葉であり、神様の永遠の救いに与れる希望であります。
さて、今朝の聖書の箇所です。
『51:4 わたしの民よ、心してわたしに聞け。わたしの国よ、わたしに耳を向けよ。教えはわたしのもとから出る。わたしは瞬く間に/わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。51:5 わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ/わたしの腕は諸国の民を裁く。島々はわたしに望みをおき/わたしの腕を待ち望む。』
「教え」とは原語のヘブライ語では「律法」を指します。そして、裁きのために光を輝かす相手とはすべての人です。ですからこの箇所は、イエス様が来られることの預言であります。私たちに近づいて、地上まで降って来られるイエス様は、正義と救いを実現するためにあらわれます。そして、イスラエルの民だけではなく他の諸国の民も裁きます。ですから、遠い島々に住む異国の民も、神様の御業つまりイエス様が降ってこられるのをを待ち望んでいるのです。
『51:6 天に向かって目を上げ/下に広がる地を見渡せ。天が煙のように消え、地が衣のように朽ち/地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても/わたしの救いはとこしえに続き/わたしの恵みの業が絶えることはない。』
天は煙のように消え去り、地は衣服のように朽ちます。天と地は、どちらもいずれ消え去ります。だから、天も地も永遠ではないのです。しかし、神様の救いと恵みの業は朽ちること、または、絶えることがありません。
イエス様もこのように言われています。
マタイ『24:35 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。』
また、ペトロはこのように書いています。
Ⅱペトロ『3:12 神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。3:13 しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。』
私たちは、天と地が永遠な存在ではないことは、知っています。でも、その時とは気の遠くなるような先のことだと・・・思っています。しかし、イザヤは預言しました。今存在しているこの天と地は無くなりますが、神様の救いと恵みの業は残って、正義の神様が支配する新しい天と地がもたらされるのです。
神様は、預言者イザヤを通して再び民に呼びかけます。神様の正義と神様の律法を信じる者は、人のそしりを恐れてはいけません。なぜなら、そのそしる者は、「しみに食われる衣、虫に食い尽くされる羊毛」、つまり一時的に存在するものにすぎないからです。人のそしりはすぐに滅びてしまいますが、神様の救いは永遠に続くのです。
ここで誰かが、神様に語り掛けます。
『51:9 奮い立て、奮い立て/力をまとえ、主の御腕よ。奮い立て、代々とこしえに/遠い昔の日々のように。ラハブを切り裂き、竜を貫いたのは/あなたではなかったか。51:10 海を、大いなる淵の水を、干上がらせ/深い海の底に道を開いて/贖われた人々を通らせたのは/あなたではなかったか。』
「奮い立て、奮い立て」。この偉大な預言に応答して欲しいのは、イスラエルの民です。過去に神様が成し遂げたことを元に、必ずこのイザヤの預言が成就するのだと、証をし、民を奮い立たせているのです。「ラハブ」とは、エジプト(イザヤ30:7、詩篇89:10)を指し、「竜」とはファラオを表しています。「ラハブ」と「竜」の本来の意味は、どちらも伝説の海の怪獣です。また、偶像礼拝や混とんを象徴しています。この箇所では、出エジプトの出来事と同じように、神様の導きによって、救いが成就すると言っているのです。しかも、それを語るのは、イスラエルの民であり、神様を信じる者であり、預言者イザヤであり、神様ご自身なのです。
イスラエルがエジプトを脱出したとき。エジプト王は、イスラエルの民を連れ戻すために、軍隊を派遣しました。追ってきたエジプト軍によって、イスラエルの民は絶対絶命となります。その時、神様は奇跡をおこして、葦の海の水を干上がらせ、イスラエルの民を救いました。同じように、神様の導きによって、バビロンの神々の支配から、イスラエルの民を救い出してもらえると信じたのです。そしてエルサレムに帰還することを、バビロンから解放されることを強く求めたのでした。ですから、この応答はイスラエルの人々の祈りだと言ってよいでしょう。
そして、エルサレムに帰還できることに希望をもって、賛美を続けます。
『51:11 主に贖われた人々は帰って来て/喜びの歌をうたいながらシオンに入る。頭にとこしえの喜びをいただき/喜びと楽しみを得/嘆きと悲しみは消え去る。』
さて、アケメネス朝ペルシャ帝国のキュロス王の時になって、エルサレムに帰還するときが与えられました。神様の偉大な導きによって、再びイスラエルの民は救われました。しかし、イスラエルの民は、まだ本当に救われたわけではありません。預言者モーセも、イスラエルの民の救いのために指導しました。しかし神様の導きの中にあって、民は偶像礼拝をしてしまいます。また、預言者第一イザヤは、攻めてくるアッシリアによって滅びてしまわないようにイスラエルを導きました。しかし、イスラエルは滅びます。また、残されたユダ王国の神殿では、偶像礼拝が行なわれたため、神様はイスラエルをバビロンに渡しました。預言者第二イザヤは、この失意の民をエルサレムに帰還できるように導きます。そして、ようやくエルサレムに帰還できた民ですが、すぐにそこに救いが訪れたわけではありません。本当の救いはバビロンからの帰還ではなく、救い主であるキリストが降ってくる時まで待つことになります。第二イザヤは、その救い主の誕生によってもたらされる「イスラエルの慰め」を預言しています。捕囚が終わろうとしているこの時に、神様は第二イザヤを遣わしたのです。預言者第二イザヤは、祖国帰還にあわせて、神様の慰めのみ言葉を伝えました。モーセも第一イザヤも、人々に完全な救いをもたらすことはできませんでした。そして、第二イザヤはイエス様による慰めを人々に知らせ、神様の恵みの業を喜んで待つよう、預言をしたのでした。
救い主メシアについては、すでに預言者第一イザヤによって、ダビデの家系から出る新しい栄光の王、平和の君として語られていました。何度も何度もイスラエルの民に預言者を送って警告した神様は、今度は救い主を降されました。その救い主こそ、ベツレヘムで生まれたイエス様です。イエス様は、苦難の道を歩まれ、十字架の死を遂げ、復活し、神の国の王として栄光を受けます。
今日から、この世に来られた主イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスを待つアドベント(待降節)に入ります。そして今日灯がともっている蝋燭は、「預言者のろうそく」です。イエス様の誕生を待ち望み、そして再臨を待ち望む時としましょう。「慰めよ」とのイザヤの預言は、神様の恵みであり、神様が私たちを赦し、そして愛してくださっている証であります。この神様の愛に、答えたいとイエス様に祈ってまいりましょう。