2024年 12月 22日 クリスマス主日礼拝
『救い主イエス・キリストを通して』
聖書 テトスへの手紙3:1-7
クリスマスおめでとうございます。毎年この時期になりますと、私たちはクリスマスの準備で、忙しいです。具体的にはアドベントまでに、クリスマスカードを出して、クリスマスの飾り付けをしなければなりません。また、お祝いの会を企画したり、特別な食事やデザートを準備しようとするならば、それなりの手間が必要です。とは言え、今の日本は平和ですから、多少忙しくなるだけのことです。世界では、クリスマスの中でも戦争が続く地域がありますし、満足に食事を食べられない人もいます。クリスマスはイエス様の誕生を祝うという意味では、世界中で同じですが、それを祝う私たちには、それぞれ違ったクリスマスがあるわけです。 今年は、能登の地震と豪雨という天災がありました。そして、未だに復興のめどが立たないどころか、瓦礫の撤去すら進まない事態にもなっています。そして海外では、ガザ地区へのイスラエル侵攻や、ロシアのウクライナ侵攻は続いています。戦闘地域に暮らす人たちが、イエス様の誕生を祝えているのか?と思うと、複雑な思いがあります。世界中の人がイエス様を信じていたなら、戦争は起こらないのに・・・と思ってみても、現実は厳しいです。私たち人間は、やはり罪人であるのでしょうか?、どれほどに神様に対して不従順なのでしょうか? 神様への不従順で、多くの人が傷つき、痛んでいることに、言葉はありません。
今日は、クリスマスに用いられる聖書の一つでありますテトスへの手紙3章4-7節を中心に、クリスマスのメッセージを届けたいと思います。この、テトスへの手紙は、牧会書簡と呼ばれ、書かれたのは紀元100年から130年頃までだと言われています。その時期にはパウロはすでに亡くなっていますから、著者はパウロではなく、パウロの教えを継承した人によって書かれた手紙です。それでも、パウロ本人の手紙だと思って読んでも差支えないと思います。また、宛先のテトスですが、パウロの弟子であり、ギリシャ人の協力者です。この手紙によると、パウロはテトスをクレタ島に派遣していたようです。(テトス1:5)
さて、パウロは「信仰によってのみ義とされる」という信仰義認論を教えました。ところが、今日の聖書の表題には「善い行いの勧め」と書かれていますから、なにか違うように感じます。特に、表題のすぐ後には、
『3:1 ~支配者や権威者に服し、これに従い、すべての善い業を行う用意がなければならないこと、』と 書かれていることに戸惑うと思います。
実は、この指示は信仰について書かれたのではありません。クレタ島の支配者たちにさかわらないようにとの指示であり、さからっていたのはキリスト教の偽教師たちです。彼らは、クレタ島を治める公国の秩序を無視したうえに、争いを好んだようです。リビングバイブルを見ると「神様の恵みを忘れずに励む」と表題がつけられていますので、その方が内容にあっていると思います。
(なお、この表題は、翻訳者がつけたものです。元の聖書にはないので、聖書を朗読するときは、この表題は読まないのが一般的です。)
パウロの普段からの教えは、この5節にありますから、確認しましょう。
『3:5 神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。~』
私たち人間が神様に義と認められるのは、ただイエス・キリストを通した神様の憐れみによります。そして神様の憐れみによって義とされた私たちキリスト者は、その憐れみに応答したいのです。つまり神様に似た姿に、私たち人間がなっていきたい。それは、神様のそして私たちの願いです。ですから、この世の悪である戦争や搾取を、見過ごしてはいけません。神様の義を実現しようと言う意味で、権力やお金が支配する世界に迎合してはならないのです。イエス様を信じるキリスト者は、神様の義を求めているからです。
それでは、本題に入っていきます。
テトス『3:3 わたしたち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです。』
ここで、パウロもテトスも、信仰を与えられる以前には、この世の人と全く変わらない生き方をしていた と告白しています。おやっと思いませんか?パウロだって、ユダヤ教の最高の教育を受けた人だから、キリスト教の信者になる前も、ファリサイ派の人として敬虔な信仰生活を送っていました。パウロは、イエス様を信じる前も、悪い人間ではなかったはずです。そこで、パウロが言う悪は何を指すのか? そこのところを考えてみましょう。
マルコ『12:29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。12:30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』12:31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」』
「神様を愛しなさい。自分を愛するように隣人を愛しなさい」という神様の掟を守っていない。つまり、神様でも隣人でもなく、自分が中心の生き方・・・それが「罪」であると言うことです。自分の命を与えてくださった神様を愛し、同じ神様によって自分と同じように命が与えられた隣人をも愛する。それが、できていなかった とのパウロの告白なのです。
戦争、搾取、あるいは自然破壊などを引き起こすのは、隣人を愛さない私たちです。自己中心で、「むさぼる」のは、私たち人間の特性です。そのような人間が、自分の罪に気づいて、自ら悔い改めるでしょうか?そして、神様を愛せるでしょうか?ましてや、他人である隣人を愛せるでしょうか?・・・
そもそも、自分に命を与えている神様を愛さなければ、神様が命を与えた隣人をも愛することはできません。神様を愛さないならば、国家間の戦争も、富める者が貧しい者から搾取することも、自然破壊も、なくならないのです。その争いや搾取の原因は、人間のむさぼりです。そして、むさぼりによる搾取は、人間同士の分断を、引き起こしてきました。それがいまだに、地球上のあらゆるところで、解決できていないのです。 人間は、自らの力で新しく変わることができませんでした。だから、神様は私たちの罪を解放するために、イエス様をこの地上に降したのです。私たちが神様に愛されている人間同士として、互いに愛し合うことを、教えるためにです。
罪深い私たちがどのようにして、生まれ変わるのか? が、今日のみことばです。それは、「私たち人間の行なった義の業」によってではなく、「神様の憐れみ」によって実現します。神様の憐れみによって、罪深い私たちは一度死んで、新しい人として生まれ変わるのです。
『3:5神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。』
ここで、「洗い」とは、バプテスマ「洗礼」のことです。聖霊によるバプテスマによって、キリスト者に造り変えられるのです。この聖霊による新生は、私たちが神様から義と認められることによって、起こります。それが、聖霊によるバプテスマです。神様は、その憐れみによって私たちを、義としてくださいます。私たちの行いが良いからではありません。ただただ、神様は私たち罪人を憐れんだのです。神様がこの世に降されたイエス様を主と信じるならば、神様は私たちを義として下さり、聖霊を送るのです。この聖霊によるバプテスマによって、私たちは新しい人として生まれ変わります。ですから、「神様の憐れみによって自分は新生された。」と、クリスマスの度に再確認したいです。バプテスマを思い浮かべてください。バプテストでは、バプテスマは浸礼が一般的です。これは、全身を水の中に沈めることで、今まで罪に生きていた自分が一度死んで、水から上がることによって新しく生まれたことを象徴した礼典です。しかし、真のバプテスマは水によって行われるのでも、牧師によって行われるのでもありません。私たちクリスチャンは、「イエスキリストは神様である」と信じることによって、義とされました。神様は、その恵みによって、自らの罪を悔い改める私たちの罪を、イエス様の犠牲で贖ってくださったのです。そして父と子と聖霊の名によって、聖霊によるバプテスマが授けられ、新しく生まれ変わったのです。
『3:6 神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。3:7 こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。』
テトスへの手紙は、パウロの教えである「イエス様を信じる者は神様の憐れみによって義とされ、永遠の命を受け継ぐものとされる」を前提としています。つまり生まれながらの自己中心的な私たちが、イエス・キリストを信じることによって、イエス・キリストに見倣うように変えられるのです。それは、神様との関係にあっても、また他人である隣人との関係にあっても同じです。イエス様への信仰が神様との和解、隣人との和解をもたらします。イエス様への信仰のみが、私たちを新しい人間へと造り変えるのです。
この手紙がお勧めしているのは、イエス様を信じることによって新しくされた人間として生きなさいと いう決意です。
「平和の君」として生まれたイエス様の誕生を祝うこのクリスマスは、イエス様に倣って、新しい人として生きていく思いを再確認する時です。神様は、何の功績もない私たちのために、その独り子をこの世に下しました。そして、イエス・キリストを通して、私たちを救っただけではなく、日々新しく生まれ変わらせます。こうして、神様は一方的に私たちを愛し、憐んでくださっていることに感謝しましょう。