「神様は悪を良いことのために用いる」これが、ヨセフの物語だけでなく、創世記全体で示されています。悪があふれていても、神様は善を成し遂げます。アダムとエバがエデンの園から追放されて以来、罪と死が人に与えられました。創世記の全部には、死、そして罪が描かれています。しかし、罪があふれていながら、神様は救いの計画を進めています。
1. 神に託したヨセフ
ヨセフには、兄たちが自分に犯した罪を罰する権利がありました。また、兄たちはそれを知っていました。父ヤコブが死んだとき、彼らはヨセフを恐れます。しかし、ヨセフは兄たちを罰するつもりはありません。ヨセフは、自分に起こった悪いことも良いことも、すべて神様によって計画されたことだと知っていたのです。ヨセフは、エジプトの支配者になって兄たちが穀物を買いに来たとき、その計画を認識しました。ヨセフが兄たちを責めなかったのは、神様は悪をも良いことのために使うことを知っていたからです。ヨセフは、自分に起こったことすべてが、ヤコブの家族を救うための神様の計画だったのです。ヨセフは兄たちを愛していましたから、彼らを罰することを望みませんでした。
イエス様は、十字架の上で父なる神様にこう言っています。
『23:34 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕~』
彼らとは、「イエスを十字架につけよ」との命令を実行している兵士たちのことです。兵士たちは、何も知らずに預言を成就させていたのです。イエス様は直接、悪や危害をもたらした彼らを非難していません。彼らを愛し、彼らのために祈っているのです。
もし私たちが、自分の人生で、神様の計画を想像することもできなければ、絶望に陥ったら最後、立ち直るのが困難です。一方で、神様の計画があって、この世を支配していると信じるならば、希望を失うこともないでしょう。神様が悪を用いても、善をもたらしてくださるからです。ヨセフは神様にすべてを託していたのです。
2.神様は良いことのために計らう
神様は悪をも良いことのために計らいます。その例について、聖書から拾ってみたいと思います。
十字架は、言いようのない恐怖と屈辱と苦しみを与えるものです。十字架は死を象徴します。十字架は罰を象徴します。全てが、悪、罪によるものです。十字架刑での死は、おそらく、人類の歴史の中で最も苦痛を伴う死に方です。十字架刑は「最も残酷で恐ろしい罰」と言われます。それは、殺すことよりも長く苦しめることを実現することで、それを見る人々に見せしめとするものでした。恐ろしいことに、ゆっくりと、痛みを味わわせ、死までの恐怖を体験させるものでした。
このような悪を象徴する十字架が、神様のみわざによって、救いの象徴となりました。もはや、悪や罰や死の象徴ではなく、赦し、恵み、愛の象徴になりました。私たちは十字架を見るたびに、神様の絶大な愛を感じるのです。神様は悪をもって善を行うのです。
パウロは、キリスト教の迫害者でした。しかし、彼は復活したイエス様と会い、回心しました。そして、伝道旅行に出て、キリスト教を広めたわけです。そのパウロに迫害されたエルサレムのクリスチャンたちは、迫害を恐れてエルサレムを離れ、パレスチナや地中海の地域に逃れました。これは、良くないことのように読めます。しかし、驚くべきことに、これはすべて神様の計画だったのです。ステファノが殉教し、クリスチャンたちが恐れて逃げ出したとき、彼らはイエス・キリストの福音を持って行ったのです。使徒言行録を見ると、弟子たちがエルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、そして地の果てまで証人となりました。これが、神様の計画だったのです。迫害が宣教を加速させました。まさにこのように神様は、悪いもの、恐ろしいもの、不可能なものを、良いことのために計らうのです。
ところで、「良いこと」「益となす」とは、どのようなことでしょうか? 神様は、あなたをキリストに似せ、成長させるためにあらゆる手段を用います。神様は、時として悪や苦しみも使うのです。その悪に直面したとき、逃げ出すことはとても簡単です。絶望したら、逃げ出せばよいのです。しかし、それが神様の計画であるのならば、絶望することではありません。神様によって将来の善があることに希望を持てるのです。しかし、私たちは、わかる時が来るまで知りえないかもしれません。だから、私たちの側に、神様が全てを備えてくださるという信仰が必要なのです。神様はすべてを用いて、全て善に向けて計画を進めるのです。イエス様と共に歩む私たちは、神様が悪をも使って益に変えてくださる、神様がすべてのものを益に変えてくださる、その信仰を大事にしましょう。