2025年 6月 29日 主日礼拝 柏師宣教のため 本原稿はボツ
「いやされ、そして救われる」
聖書 ルカ17:11-19
今日は、ルカによる福音書の癒しの物語からみ言葉を取り次ぎます。
イエス様がエルサレムに上る途中、まっすぐには進みませんでした。サマリアには」入らずに、ガリラヤ側を歩いたのです。サマリヤは、ユダヤと異邦人の混血の国でありました。そしてユダヤ人たちは、サマリアをたいへん嫌っています。そのため、ユダヤ人はサマリア人を基本的に避けますので、サマリアの村には近づかないのが普通です。だから、ガリラヤから出発したイエス様は、サマリアとの境目をたどってエルサレムに向かっているわけです。このように当時のユダヤ人は、ヨルダン川の東側に渡って、サマリアを避けて通ったのです。この時に入った村はガリラヤの村であり、そしてそこに住んでいるのはユダヤ人です。その村での出来事でした。重い皮膚病を患っている10人が出迎え、遠くから声を張り上げ「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」とお願いしたのです。
ところで、重い皮膚病に罹った人は、律法(レビ記13章)の規定に従わなければなりません。祭司に診せ、重い皮膚病だと診断されると「あなたは汚れている」と言い渡され、人目のつかない場所に隔離されました。家族から離れた場所で、自分達だけでひっそりと暮らさなければならないのです。彼らが、どんな生活をしていたか? と言えば、ベンハーと言う映画で皆さん見たことがあるかもしれません。その画像では、重い皮膚病の人たちは、廃墟の中に住んでいて、食事は家族が運んでいました。たぶん、裕福な家庭だから養われていたのでしょう。養われているとは言っても、何の希望もなく、ただ死ぬ時を待つ生活です。こんな事情からすると、この10人の重い皮膚病の人の行動がちょっと変です。街道を通るイエス様を見つけて、大声で憐みを願っています。明らかに彼らは、イエス様の名前を知っていました。そして、先生と呼んでいます。それだけではありません、なにか確信をもって叫んでいるように感じます。ということは、彼らは イエス様のことを家族たちから知らされていたのです。それだけではありません。イエス様が街道を歩いてくるときに、声が届く場所まで、連れ出した人がいたと思われます。ここに、重い病の故に世から離れ、差別され、捨てられていた人達ながら、希望を持っている姿があります。彼らは、イエス様に命がけで叫びました。その叫びには、病による苦しみ、そしてこの世から差別されて生きる者の苦しみと、治りたいとの願いが込められていたのです。そして、彼らにとって、これが最初で最後のチャンスかもしれません。家族から、イエス様のことを聞いたとき、彼らは、希望を持ちました。そして、イエス様が通ることがわかって、禁じられている外出をしたわけです。
イエス様は、その叫び声を聞きました。そして、心動かされ祈り終わると、その憐れみをもって、大声で「祭司たちの所に行って体を見せなさい」と言います。この時イエス様は神様にこの10人の癒しを祈りました。レビ記13章には、重い皮膚病を患った人の診断は、祭司の仕事だと規定されています。良くなった時、祭司が清くなったのか、まだ隔離が必要なのかを判断するわけです。もちろん、清いとの診断があれば、普通の生活にもどれます。この10人は、その律法を知っていますから、「癒される」と信じて、祭司の所に向かいます。そして、イエス様の言葉を信じた10人は癒されたのです。
さて、彼らの苦しみと叫びを見て 憐れんだイエス様ですが、彼らが癒された後のことをも心配しました。実際10人癒して、何人が神様と共に歩むようになるのだろうか? イエス様が神様に祈ったのは、病の癒しだけではありません。イエス様は、神様を信じる信仰を持ってほしかったのです。
『17:15 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。17:16 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。』
先ほども触れましたが、サマリア人とは、イスラエルとアッシリアの混血の異教徒でした。その一人が、大声でユダヤの神様を賛美して、イエス様の所に戻ってきたのです。ほかの9人は、助けをお願いするときは、必死に叫んですが・・・それなのに、・・・願いがかなえられていまうと・・・神様のことは忘れたのでしょうか?。そんな時の、奇跡です。一人だけが信仰を頂いて、イエス様にひれ伏して感謝しました。そのサマリア人は、イエス様を信じそして共に歩むものとなったのです。
『17:17 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。17:18 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」』
この物語では、ほかの9人がユダヤ人かどうかは、書かれていません。たぶん、その9人はユダヤ人なので、祭司に診てもらったはずです。ところが、このサマリア人は、祭司に会う前に、自分が治ったことを知って、イエス様の所に戻ってきました。このサマリア人はユダヤの神様を信じる者ではありません。しかし、この時神様を信じるようになったのです。異邦人の彼は、病をいやされただけではなく、さらに信仰を頂きました。ところが、もともとユダヤ教徒であった9人は、祭司に診せて「清い」と診断されると、この癒しの業を忘れてしまったのでしょう。彼ら9人の信仰は、このサマリア人の様には強められなかったのです。
イエス様は続けます。
『17:19 ~イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」』
このサマリア人は、ひれ伏して感謝していました。イエス様は、ここで、このサマリア人が救われたと 宣言します。しかも、救ったのはイエス様ではなく、彼の信仰によって救われた というわけです。「あなたの信仰があなたを救った」。この言葉が、今日の話の中心です。ここでいう「信仰」「救い」とは何か。そこが重要なところです。
さて、ルカによる福音書8章には「12年間、出血が止まらなかった女性の癒し」の話がありました。群衆の中に囲まれていたイエス様の後ろからイエス様の衣の房に触れた女性の記事です。そこでは、イエス様は彼女に「あなたの信仰があなたを救った」と言いました。ここでの「信仰」とは、「イエス様に救っていただきたいと切実な思いによって、イエス様に近づいたこと、救いを求めたこと」に繋がったのだと言えます。
さて、ルカによる福音書の7章では、部下の病を癒してほしいとイエス様の所に知人を遣わした百人隊長の記事がありました。イエス様に対して「ただ一言、おっしゃってください」と言葉を伝えた彼に対して、イエス様は「これほどの信仰を見たことがない」とほめたのです。・・・このように「信仰」とは「イエス様の言葉に対する絶対的な信頼と、神様への服従なのだと、言えます。
これらの「信仰」の下の行動に対して、イエス様の下した評価は、「あなたの信仰があなたを救った」でした。ここで言う「信仰」とは、「イエス様に救われた救いを心から喜び、神を賛美し、イエス様に感謝を伝え、この感謝と喜びの中に生きること」です。だから、今日の記事での「信仰」とは、直接的には応答することだと考えましょう。「いやし」に与りたいと願う信仰からより進んで、信仰に生きる。その一歩進んだ信仰。それは、「神様の救いと恵みを喜び、感謝して生きること」につながります。だから、一歩進んだ「救い」は、その信仰を支えに生きていくことなのです。この信仰こそが私達の信仰を育ててるのです。そして、このイエス様の救いと恵みに対する感謝と喜びこそ、私達の信仰と信仰生活、そして、人生を支える大きな力となります。
「あなたの信仰があなたを救った。」これは、病が治ったのであろうほかの9人と違って、この一人のサマリア人、が受け取った最も恵まれたの出来事でした。この日から、彼は新たな命を得たのです。彼は、私たちと同じです。イエス様を主として結ばれたのです。サマリア人にも救いが来ました。天の国にこのサマリア人は招待されたのです。ユダヤ人にさげすまれていたサマリア人であって、さらには、不幸にも重い皮膚病にかかって、目の前が真っ暗だった彼に、イエス様の恵みが降り注いだのです。ほかの9人も、イエス様の癒しの力を信じる信仰を持っていました。その結果、健康と言う贈り物を受け取りました。しかし、残念で鵜。彼らは救いの約束を受け取りに来なかったのです。・・・でも、一人だけサマリア人が、イエス様の恵みに与りました。そして、神様を賛美したときに信仰に生きる決意が生まれました。・・・ルカは、この「応答の出来事」を喜ばいしい訪れ(福音)として、福音書に書き留めたのです。
聖書にある通り、サマリア人の心にあったのは神様への感謝、イエス様への感謝の思いでありました。彼の信仰の根底には、癒されたこと以上に救われたことへの感謝と喜びがあります。そして、感謝して受け取るだけではなく、喜んでイエス様に仕えることを言い伝えました。この一歩進んだ信仰こそ私達の信仰を持ち続け、強めていく原動力となるのです。この感謝と喜びをもって歩んで行きたい そう願ってまいりましょう。