ヤコブ1:19-27

 御言葉を行う人

2020年 8月 23日 主日礼拝

『み言葉を行う人』

聖書 ヤコブの手紙 1:19-27           


 今日は、ヤコブの手紙から「御言葉を行う人」についてのお話です。

ヤコブの手紙は、イエス様の兄弟ヤコブまたは、その弟子が書いた手紙です。当時のエルサレムの教会では、イエス様の兄弟ヤコブは中心的存在でした。(初代エルサレム教会長) 

イエス様の弟子たちは、サウロによるキリスト教の迫害があった時も、エルサレムから追われることもなく、ユダヤ教のナザレ派としてユダヤ教の中にいました。その証拠に、紀元56年にパウロがエルサレムで逮捕されたときも、ヤコブはパウロと一緒でしたが、ヤコブは何の危害も受けませんでした。ヤコブは、ユダヤ教の中でも信頼されていたのです。ヤコブが殉教(紀元62年)するころも、エルサレムの教会はユダヤ教の中にあり続けました。キリスト教が、ユダヤ教と区別されるようになったのは紀元90年以降になります。

  

 次に、手紙の宛先です。ヤコブの手紙のあいさつ文の中に「離散している十二部族の人たちに」となっていますから、国外に住んでいるユダヤの民のキリスト教徒に向けて出されたものです。

ですから、異邦人のキリスト教徒を意識して書いた手紙ではありません。むしろ具体的にユダヤ人が共通に向き合っている試練をのりこえることだけに焦点をあてた手紙という特徴を持っています。

(もう一つの特徴として、ヤコブの手紙には、イエス様のことがほとんど書いてありません。マルチン・ルターは、そういう理由から、ヤコブの手紙を「藁の書簡」と呼びました。)


 時代背景から言うと、ユダヤ戦争と言う、ローマ帝国を相手にした戦争が(ユダヤ戦争66年-73年)始まろうとしていた頃のため、熱心党(ゼロテ党)と呼ばれる過激な律法主義者のグループがローマに対して暴動を起こすような状況でした。サマリア、シリア、デカポリス、フェニキア等のユダヤ周辺にある町のキリスト教会をはじめ、ローマの支配下地域、つまり全キリスト教会は、その影響を受けていたと思われます。神学者(ラルフ・マーティン)は、このヤコブの手紙の教えについて

「ローマに対する反乱の発生に先立った、エルサレムの中や周囲におけるゼロテ党の暴力に対して語られた。」と仮説を立てました。

つまり、主の兄弟ヤコブは、「神の支配を打ち立てるためなら暴力も用いる」と言う熱心党の主張に、反対していたということです。熱心党は、ローマの度重なるユダヤ人への侮辱を問題にして、暴動などをしかけていましたから、ヤコブはその過激な活動に対して反対していました。エルサレムの教会や周辺諸国の教会がその影響を受けないように心を砕いていたものと思われます。残念ながら、ヤコブの手紙には、具体的なユダヤのおかれた状況などについては、語られていませんので、これは推定なのですが、歴史家ヨセフスの「ユダヤ戦記」などを見ると、当たっているように思えます。

 

「聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。」ヤコブは、こんな指示を出しました。これを言い直すと、「聞くのに遅く、話すのに早く、また怒るのが早い」との指摘です。当時、ユダヤの民はローマに対して怒っていました。それは、ローマに税金を払うことだったり、ローマが出した「皇帝を礼拝するように」との命令だったり、律法の巻物をローマ兵に切り裂かれ燃やされたり、神殿の財宝を何度も持っていかれたりしたことに原因があります。また、ローマはこれらの不満で熱心党が暴動を起こすと厳しく処罰しましたので、さらにヒートアップしたのでした。熱くなってしまうと、人の話はよく聞かないで、自分の言いたいことだけを言うのは、人の性です。そこでヤコブは、「人の怒りは神の義を実現しない」と言います。「怒り」では、神の義を実現出来ないので、「悪を捨てて、御言葉を受け入れなさい」と命令します。暴動などに加わるのではなく、御言葉に立ち返りなさい。御言葉は、神様が与えてくれたプレゼントであって、これを受け取るためには、まず悪を取り除く必要があります。悪とは、「暴力を認める熱心党の考え」を指しているものと思われます。神様の知恵を御言葉によって得るためには、まずその悪い考えを捨て去らなければならないでしょう。そうして御言葉を受け入れれば、御言葉には、私たちの魂を救う力を発揮するのです。

 

 そしてヤコブは続けます。「聞く人ではなく、行う人になりなさい」。神様の知恵を頂いたところで聞くだけでは世の中は何も変わることがありません。ヤコブは、み言葉を聞いてもそれを行わない人を、鏡に自分を写して眺める人に譬えられています。み言葉と言う鏡に聞いて自分の姿を写しても、み言葉すなわち鏡の前から離れたとたんに、その映し出された自分の姿を忘れてしまうわけです。ヤコブは言います。み言葉を聞いて忘れる人ではなく、行う人は幸いです。

さらにヤコブは、行うよりも舌が先に動くのであれば、信仰は無意味だとまで強く断言しています。

言葉に出すけれども、なかなか実行しない。とか、聞こえの良いような言葉で話すので行いに期待したら、がっかりだったということでしょう。 思いを言葉にすることについて、イギリスで看護婦の鏡とされた、病院長のナイチンゲールはこのように言っています。

 

 人の思いは、言葉に変わることで無駄にされているように、私には思えるのです。

 それらは皆、結果をもたらす行動に変わるべきものなのです。

-  フローレンス・ナイチンゲール 

 

 ヤコブは、信仰が意味あるものとなるために、2つの行動をするように指示をしています。「みなしごや、やもめが困っているときに世話をする」、「世の汚れに染まらないように自分を守る」この2つです。どちらも、特別なことではありません。弱い者に対する保護。そして、み言葉を守ろうとする具体的な行動です。

 そこには、当時の特殊な背景があります。キリスト教徒は共同生活をしていたわけですが、そこには富のある人も貧しい人もいました。また、商人や裕福な地主にやとわれた人々がいました。このすべてが共同生活者ですから、「みなしごや、やもめが困っているときに世話をする」ことが、日常の課題となっていました。一方で、ローマとの関係が悪くなる中で、信仰を守ることとローマと戦うことが同じ意味になりつつあって、純粋に信仰とみ言葉に基づいた生活を守ることが難しくなっていたのです。ヤコブは、こういったことに巻き込まれないように指導し、教会の日常の課題に取り組むように、具体的な行動を示していたのです。

 

 想像してみてください、教会に集まっている人が共同生活をしています。支えられる人が多いほど、相当な負担があります。食事や世話にすぐに動かないといけません。具体的に手を差し伸べることをしていないと、たちまち皆がおなかをすかしますし、また弱いものが放っておかれてしまいます。

その上、ユダヤ教の指導者たちは、ユダヤのあらゆる人たちを結集させて、ローマと戦う準備をしている状況でした。エルサレム教会にも、そういう話が来ていたと思われます。結局は、エルサレム教会は、この戦争に加わりませんでしたが、サドカイ派、ファリサイ派、エッセネ派は戦争に加わりました。そういう騒がしい世の中にありながら、教会の信仰を保たなければなりません。そんなヤコブの置かれた状況にあったら、冷静にいることも難しいでしょう。たぶん誰でも、パニックになってしまうと思います。しかし、神様によって動かされるとき、ヤコブは、神様から力が与えられたのだと思います。

 

 極限の中で行動した人。ということで、コルベ神父を紹介したいと思います。ポーランド人のカトリックの神父さんで、長崎に聖母の騎士修道院を作った人です。この方は、アウシュヴィッツの収容所で一人の男性の身代わりになって亡くなられたのですが、その「隣人を愛す」行いを年表でご紹介します。

1930年に長崎に到着。1932年には聖母の騎士修道院を設立した。

1936年(6年後)にニエポカラノフ修道院の院長に選ばれたために故国ポーランドに帰国した。

1939年9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻による第二次世界大戦の勃発により、活動の縮小や停止を余儀なくされた。ニエポカラノフ修道院も病院として接収され、多くの修道者が修道院を去った。

1939年9月19日(それからすぐに)、コルベは修道院に残った修道者らと逮捕され、彼らはドイツにあるアムティッツ強制収容所へと収容され、11月にポーランド領にある強制収容所へ移送された後、12月18日に釈放された。病院となっていたニエポカラヌフ修道院に戻ったコルベたちは、ユダヤ人にもカトリック教徒にも分け隔てなく看護をした。この行為はナチスを刺激し、監視が強化された。

1941年2月17日にゲシュタポにより、コルベは4人の神父と共に逮捕された。

コルベはパヴィアックの収容所に収容された後に、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に送られた。


 1941年7月末、収容所から脱走者が出たことで、無作為に選ばれる10人が餓死刑に処せられることになった。その一人であるポーランド人軍曹が「私には妻子がいる」と泣き叫びだした。この声を聞いたとき、そこにいたコルベは「私が彼の身代わりになります、私はカトリック司祭で妻も子もいませんから」と申し出た。

 

こうして、コルベ神父はほかの9人と一緒に餓死刑にかけられました。

 

 通常、餓死刑に処せられるとその牢内において受刑者たちは飢えと渇きによって錯乱状態で死ぬのが普通であったが、コルベは全く毅然としており、他の囚人を励ましていた。 との説明も加えられていました。

 

 極端に追い詰められた状況の中でありながら、み言葉 「隣人を愛す」を行うことを実践できた。コルベ神父は、その人が大事な人だから、価値がある人だからではなく、「隣人を助けたかったから」だったのでしょう。事実、無事生還した人は、いたって普通の人です。また、コルベ神父は修道院が病院として使われているときに、ユダヤ人の看護も わけ隔てなく行いました。ゲシュタポという、特殊な組織に押し流されることなく、み言葉を行ったのです。

 

 コルベ神父のように、私たちは「隣人のために」身を投げうつなどと言うことは、たぶんできません。ヤコブは、それなのに「み言葉に聞き」「み言葉を行う」ことを強く命令しています。信仰があればできると、ヤコブは言っているのでしょうか? ・・・

いいえ、そんなことはありません。私たちは、そもそも人間です。罪深い私たちには、そのような強い信仰を持つことは難しすぎるのです。それでも、イエス様に祈り、イエス様にすがったときに、イエス様は私たちにその強い信仰を与え「み言葉を行う人」とならせてくださるでしょう。わたしたちは、小さなことから、イエス様に祈って「み言葉を行う人」に少しずつ変えられていくよう、信仰を育ててまいりたいものです。