コリントの信徒への手紙一7:17-24

召されたままで


1.召されたとき

 『7:17 おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです。』

 分け与えられた分に応じ:分とは、立場、地位、能力、身分のことをさすものではありません。

             原文は、「配られた」です。分をわきまえろ、とのニュアンスはありません。

 召された:原文は、「神が呼び出した」。

 身分のまま:身分などは、原文にはありません。 「神が呼び出したように そのように歩みなさい」

 ここに、とても大切な原則が書かれています。それは、

「おのおの神様が呼び出したときのままで歩みなさい。」です。

 クリスチャンになると言うことは、内側の変化です。霊的に大きな変化を受けます。しかし、外側はクリスチャンになって、どこも変わるものではありません。パウロは「外形を変える必要がない」のに、変えようとする人に「変えないで」と命令をしているわけです。内側の変化とは、何でしょうか? クリスチャンになるまでは、自分の自分による自分のための道を歩んできました。それを、神様が用意されている道を歩むように変わるのです。そもそも、クリスチャンとなることは、罪が赦され、神の子たちとされ、永遠のいのちを得、神の国を相続することであります。さまざまな変化があります。だから、クリスチャンは、新しく造られた者といえるわけです。ですから、「クリスチャンになったということで、目で見える外側の景色を変える必要はない」、とパウロは言います。もちろん、罪を犯す等は、すぐにでも変える必要があります。ですが、罪にかかわらない事は、変える必要が無いのです。

 だから、召されたとき割礼を受けていたのなら、その跡をなくしてはいけません。また、召されたとき割礼を受けていなかったのなら、割礼を受けてはいけません。

 割礼は、ユダヤ人男子が、神様とイスラエルとの契約の中に入ることを表していました。ユダヤ人がイエス様をメシヤであると信じたとき、パウロはその割礼の跡をなくそうとしてはならない、と言っています。なぜなら、ユダヤ人はクリスチャンになるべく、律法のすべてを捨ててしまう必要はないからです。また、逆に異邦人がクリスチャンになったからと言って、割礼を受けてはならない、と言っています。異邦人はユダヤ人の律法や慣習を守る必要がないからです。

 そもそも、割礼によって人間の内面は何も変わるものではありません。大事なのは神様の命令を守ることです。神様の命令を守ることを気にかけて、その他のこと、特に外見上のことは気にかけないほうが良いと言えますし、外見上の事を変えることで思い悩んだり、議論をするのは時間の無駄であります。

2.奴隷のままで

 この命令は、身分や職分にも言えます。

『7:21 召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。7:22 というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。』

 古代ローマでは、その大部分の人が奴隷でした。キリスト教は身分や職業に分け隔てなく伝道されましたから、多くの奴隷もクリスチャンになりました。そして、身分の差なく平等に教えを受けたのです。そこでクリスチャンとなった奴隷は、教会の中だけではなく、普段も平等でありたいと願うはずです。しかし、パウロは、奴隷から自由人になることも良いことだが、内側で起こっていることがとても大切だと教えています。それは、だれでも罪の奴隷であったのが、クリスチャンになった今は、罪から自由になっているからです。同時に、クリスチャンとなった自由人は、キリストの奴隷とされました。

奴隷 →外側:奴隷  内側:罪から自由に、そしてキリストの奴隷

自由人→外側:自由人 内側:罪から自由に、そしてキリストの奴隷

 クリスチャンとなれば、身分や職分に関わらず、「罪から自由に、そしてキリストの奴隷」となるのです。

『7:23 あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません。7:24 兄弟たち、おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい。』

 奴隷は、主人の言うことに絶対、服従しなければなりません。それだけの対価を払い、そしてその対価に見合う労働を買ったからです。悪を行う主人であったら、良心に反するような命令もあるでしょう。そんなときも、主人の命令に従うべきでしょうか? そんなことを考えると、奴隷である状態から抜け出して、自由人になれるならば、その悩みから抜け出せるわけです。だから、パウロは、「人の奴隷となってはいけません」と言います。神様に買い取られた者として、神様に対して服従するべきなのです。もし、機会があれば奴隷の身分から離れたほうがよいのです。けれども、その状況を変える可能性はほとんどありません。

 この「召されたときの身分のままで、神の前にとどまっている。」という原則は、信仰生活にとって重要です。自分はこれから何を目指すのか?神様は自分に対してどのような計画を準備しているか?と考えるとき、原則が無いと止めどが無いのです。あれやこれやと私たちはとかく、外側を変えなければいけないとあせってしまいます。