ヨハネ2:43-51

あなたこそ神の子です


1.フィリポとナタナエル

 フィリポというベツサイダ出身の人が カナの出身のナタナエル(ヨハネ21:2)にイエス様を紹介するという場面です。フィリポがイエス様の事を証した相手は、友人知人であったのでしょう。ごく自然に証をしました。ナタナエルは、一般にバルトロマイと同一人物であったと考えられています。また、イエス様は二人一組で行動させていましたが、フィリポとバルトロマイは一組になっています(マタイ10:3、ルカ6:14)。きっと、ナタナエルはフィリポと仲のいい友達であったと思われます。

2.フィリポの証

 フィリポは、イエス様がどんな方なのかを、『モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方』と紹介しました。律法とはモーセ五書を指します。預言者とは、歴史書と預言書を指します。ですから、フィリポがナタナエルに言ったことは、「旧約聖書全体が書き記している約束の人物に出会った。それがナザレのイエスだ」ということでした。新約聖書だけでなく旧約聖書も全体として一人の方を指し示しています。その名前をヘブライ語でメシヤ、ギリシャ語でキリストといい、油注がれた者、救い主という意味です。旧約聖書が全体として指し示しているその方がいったいだれなのか、いつ現れるのか、人々は待ち望んでいました。フィリポは、「今その人に出会った」と証したのです。

3.ナタナエルの先入観

 ナタナエルはフィリポからキリストが誰であるかを聞きました。ところがナタナエルには、先入観がありました。そのために、すぐには その証を受け止めることができません。

 ナタナエルにはキリストが田舎のガリラヤ地方から起こるはずがない、という先入観がありました。ガリラヤのような方言のきつい地方からキリストが出るはずがないとの偏見であります。ましてや、ナザレ村という田舎から王なるメシヤが出るなどとは聞いたことがありません。そこで、フィリポが考えた一番いい方法は、キリストのもとにナタナエルを連れていくことでした。

 イエス様を証する場合、イエス様のもとに人を誘ってはじめて証になります。証をする人自身がイエス様と出会い、その素晴らしさを体験していなければ意味を成しません。証する人の中に、イエス様は素晴らしい方なんだ、という実感がある場合に、人を説得する力が出てくるのです。フィリポの証に対してナタナエルは、疑いはあるけれどもとにかく行ってみよう、と行動に移したのです。

 イエス様は、ナタナエルが自分の所に来るのを見て。『「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」』と言います。会ったことも無いのにです。まことのイスラエル人とは、人種のイスラエル人であり、ユダヤ教徒であり、神様に忠実であることを指します。そして、「この人には偽りがない」とまで、イエス様は断言しました。このことから、イエス様はナタナエルの事を良く知っていることが推測されます。心当たりのない、ナタナエルはどこで自分の事を知ったのかを聞きました。フィリポがイエス様に話したのかな?ぐらいの乗りだったかもしれません。つまり、この瞬間まではナタナエルはイエス様の事をメシアだとは信じていなかったのであります。やはり、「メシヤが現れるのは、エフラタのベツレヘムであって、ガリラヤのナザレではない」との先入観が邪魔していたのでした。

4.ナタナエルが弟子となる

 ナタナエルとイエス様との会話が詳しく記録されていないので、ナタナエルがどのようにしてイエス様を信じるようになったのか良くわかりません。わかっていることは、「フィリポが自分を呼びにくる前に、自分がいちじくの木の下にいるのを見た」というイエス様の言葉にひどく驚いたことです。そしてこれがきっかけで、「イエス様が神の子である」という信仰告白に導かれています。

 直接的には、ナタナエルは自分の家のイチジクの木の下にいたわけです。そして、イエス様はナタナエルの家に行き、そしてナタナエルがいちじくの木の下にいるのを見ていたと言うことです。そして、それをするためにはフィリポが親しい仲間に証をしようとしていたことを知っていなければなりませんし、ナタナエルの家も知っていなければなりません。また、「この方は、自分の心の奥までも見通すことができる人だ」と思ったのでしょう。神様は、自分のすべてを見通すことができる方です。何事も見通す目をもっているということで、イエス様が神の子であると信じたのでしょう。こうしてナタナエルに、イエス様を信じる信仰が与えられました。

 神様は私たちを見ています。だれも見ていなくても、どんなに隠れても、神様は見ています。そして、私たちが何をしているのか、何をしようとしているのか、みなを見ています。どんな気持ちを持っているのかも知っておられます。どんな悩みをもっているのか、どんな問題をもっているのかもみな見抜いておられます。何を祈ったのか、どんな気持ちで祈ったのかもみな知っておられます。ナタナエルは、「自分をイエス様が見ている、知られないはずの自分のことを知っている」、このことを知って、イエス様を信じるようになりました。これは、信仰の入り口です。

ナタナエルは、さらに神様の栄光を見ることでしょう。

『天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。』

とイエス様は言いました。ヤコブを祝福したときと全く同じ光景がナタナエルも見ることになる。つまり、ナタナエルの信仰生活が祝福されることを予告しました。

創世記『28:12 すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。