ルカ5:27-39

 レビを弟子にする


1.レビを弟子にする

 レビ(徴税人マタイ)が税関(通行税をとる目的の場所)の役人として、窓口に座っていました。カファルナウムは、その立地条件から、商業の中心地として重要な位置を占めていました。カファルナウムは、アジア内陸部、ダマスカスから地中海沿岸の都市、エルサレム、そしてエジプトに至る大街道沿いにあった交通の要所です。カファルナウムの税関と収税事務所は、当然、重要な施設として役人の管理下に置かれていたと思われます。湖上での貿易も、当時は非常に盛んであったことから、カファルナウムの徴税人の収入は多かったものと思われます。

 さて、イエス様はなぜ、ユダヤを裏切ってローマについているとされている徴税人、ユダヤ人一般に憎まれ、不人気であった職業の人物を弟子に選んだのでしょうか?なぜ、その憎まれている職のために、ユダヤ人との交友を失い、罪人や異邦人など、ユダヤ人の交友関係から外れている人々と交わらなければならなかった人物を、弟子の12人に含めたのでしょうか?これらの疑問に対して、さまざまな意見があります。

①イエスはこの行為によって、イエスの教えと自由主義を疑い誤解していたファリサイ派の有力者たちに挑戦状を投げつけたのだ。

②彼の一見奇妙な選択は、献身的な友人たちの内輪に、実業家、つまり、成長しつつある小さな社会の事務を管理し、経済を統制することができる者を得たいという単純な願望によって決定された。

③単に天からの突然の衝動に従った。

 いずれも納得のいくものではないようです。きっと別の動機、それももっと深い動機が、この軽蔑された役人を使徒たちの一団に加えたことでしょう。イエス様はこの選択によって、イエス様の目にはすべての召命が、すべての生き方が祝福に至る可能性があることを示そうとされました。仕事によってその人が高められることはなく、仕事をするその取り組みの仕方によって高められるのです。イエス様は徴税人マタイを呼び寄せ、彼の家で公人や罪人たちと宴会をすることによって、その罪びとたちをも承認されました。

 しかし、そこ(カファルナウム)にいた律法学者やファリサイ派の人たちは、イエス様の弟子たちに対してつぶやきます。

『「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。』


 ですから、イエス様は彼らに言われました。

『医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。5:32 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。』

これは、聞く者の心に深く染み入る言葉でした。マタイ、マルコ、ルカの3人の福音書記者は、この言葉を微妙に変えながら福音書に採用しています。これは明らかに、キリストに従った偉大な最初の弟子たちが好んだテーマであったのでしょう。それはイエス様の教会に豊かな実を結びます。なぜなら、イエス様はこのように、頻繁に道徳的な面で非難を受けている人や社会的弱者の中に入って行ったことは、すべての慈善事業の基礎だからです。イエス様の行為は、「社会の上流階級が下流階級を愛するために身をかがめる」という姿勢からも正当であると言えます。そのイエス様の取った姿勢は、すべての家庭と宣教活動の根幹をなすことであります。


2.断食についての問答

 バプテスマのヨハネの弟子たちはよく断食し、祈りを捧げ、ファリサイ派の弟子たちもそうであるのに、あなたがたはなぜ食べたり飲んだりするのですか?この質問をしたのは、バプテスマのヨハネの弟子とファリサイ派の弟子で、このとき一緒にいたことがマルコの並行箇所からわかります。このヨハネの弟子たちは、最初、イエス様に対してあまり友好的な感情を持っていなかったようです。このような嫉妬はごく自然なことです。福音書記者たちは、初期のキリスト教ができようとしていた時の誤りや間違いを隠すことなく書きました。すべてのことを、厳格で曲げられない真実として語らざるを得なかったのでしょう。ヨハネ自身は最も厳しい禁欲主義を実践し、彼の最も近い信奉者たちに、間違いなく彼を真似るように要求しました。ヨハネの生き方、宴会への出席のことです。なによりも、役人との交際、その一人を弟子や友人として選んだことは、ヨハネに従う弟子に驚きと不安を与えたに違いありません。それゆえ、この箇所のような疑問や、イエス様がバプテスマを授けていることへの不満(ヨハネ3:25、26)が生じていたのです。

 ユダヤ人の断食の習慣は次のようなものです。モーセの律法では、一年に一度だけ、贖罪の日の断食を命じています(レビ記16:29;民数記29:7)。イエス様の時代には、厳格なユダヤ人は週に二回断食していました(ルカ18:12)。月曜日と金曜日(伝承によれば、モーセがシナイ山に登った日)です。しかし、イエス様はファリサイ派のような断食を決して行わなかったし、定期的な断食を認めてもいませんでした。例えばマタイ17:21『しかし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行かない。』と新共同訳では、本文の後ろに追加で記載されています。明らかに断食は、特別なことを祈るときに捧げられるものであります。

そして、断食をするときは来るのです。

『5:35 しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」』 


 ファリサイ派の人々は、古いワインの方が良いと言います。断食も古い習慣で良いと言うのでしょう。しかし、だからと言って新しい服から布切れを切り取って古い服に継ぎをあてるでしょうか? 新しい服も穴があくし、古い服も、新しい端切と合いません。ましてや、古いものが良いと言って、新しいワインを古い革袋に入れたら、革袋がガスの圧力で破れてしまいます。新しい教えである新しいワインには、それにふさわしい新しい革袋が必要です。古いワインを入れておくのによいからと言って、新しいワインを古い革袋、つまり新しい教えのために古い習慣を適用するのはふさわしくありません。しかし、古いワインがおいしいことは、否定出来ないのであります。