ルカ19:41-48

 宮清め

 

 1.エルサレムに近づく 

 イエス様はエルサレム入城のため、ロバに乗ってきました。そしてエルサレムが見えると、言われました。

「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。 

 エルサレムは、他の国の都市と同様に、長い間栄えていた都市です。また、ユダの古代の王たちの所在地であり、偉大な神様の礼拝所であって、諸部族が神様に仕えるために何度も上った都市です。そしてエルサレムでは、神様のしもべたちのメッセージを軽んじ、預言者たちをあざけり、悪用してきました。預言者エゼキエルは、その偶像礼拝の都が滅びることを預言していました。

エゼキエル『6:1 主の言葉がわたしに臨んだ。6:2 「人の子よ、顔をイスラエルの山々に向け、それに向かって預言して、6:3 言え。イスラエルの山々よ、主なる神の言葉を聞け。主なる神は、山と丘、川と谷に向かって、こう言われる。わたしは剣をお前たちに臨ませ、聖なる高台を破壊する。』

 イエス様がエルサレムに入ろうとしていたときのエルサレムの光景は、国の堕落を象徴していました。イエス様は、歴代の王が崇拝と犠牲を捧げた場所である神殿を思います。それは、エゼキエルの時代と同じく冒涜されていました。イエス様は、街に対する外面的な災難をほのめかしているかもしれませんが、エルサレムの神殿に最も懸念を持っていたことは確かです。運命は、神様によって報復の行為へと進んでいきます。イエス様は赦されない罪と、その結果について考えました。それは単にエルサレムの街の破壊ではなく、長い間「祈りの家」であった神殿の破壊でした。そして、霊的な破滅は進んでいたのです。

 神様の恵みによって満たされ、キリストの義によって与えられる永遠の平安は、人に自然と与えられるものではありません。また、自身で得られるものではなく、神の恵みの贈り物と聖霊の働きによって与えられるものです。ユダヤ人たちがこれらの事を知っていれば、幸せでありました。そして、それを知る手段を持っていたので、彼らは非難されるべきでありました。しかし、このユダヤ人たちが、理解を深めるためには、神様のゆるぎない恵みが必要です。しかし、彼らの心に働きかけても、受け入れられませんでした。

 結局のところ、このイエス様の嘆きは、エルサレムとその都市の住民についてでした。全人類についてではなく、エルサレムの破壊が間近に迫っていることをイエス様は知っていたのです。しかし、ユダヤ人たちの目は見えなくなり、心が固くなり、愚な霊に捕らえられました。もし、彼らがイエス様を受け入れていたならば、災難から守られ、平和と繁栄を享受することができたでしょう。

2.神殿から商人を追い出す

神殿の中にいる商人とは、両替する人と犠牲にする鳩を売る人です。 (マルコ11-15節)

 神殿の境内では、礼拝に来る人々のために犠牲の動物を売っている商人、普通の貨幣を神殿に納めることができる通貨に両替する商人がいて、売買が行われていました。神殿ではローマの通貨ではなく、神殿内だけで使えるユダヤの通貨を納めなけらばならない事と、遠くから巡礼に上ってくるときに犠牲の動物まで携えてくるのは困難な事だから、許容されるべきです。しかし、イエス様は、境内で売り買いする商人を追い出し、両替の台をひっくり返すなど手荒な行動をしたようです。この場面を、ルカはあっさりと追い出したことだけを書き、この言葉で強調します。

『19:46 彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』/ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」』

 ここで、イエス様が言われたのは、「神殿は祈る場所」であるということです。イザヤを見ると、

イザヤ『56:7 わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』とある通りです。

 彼らとは、異邦人のことです。これを読むと、イエス様は生贄の動物を売ることや献金を両替すること自体は否定していないのだと思われます。そうだとするならば、イエス様は何に対して怒ったのでしょうか?一つ明確なのは、エゼキエルの時代に、神殿は偶像礼拝の巣窟となっていたことです。ルカは、イエス様がエルサレムの見えるところから、そのことを引き合いに涙を流されたことを書きました。ですから、嘆いているのは、神殿全体の腐敗です。商売の場所にしてしまっていること、そして、祭司たちがその強盗の巣を清めようとしないことです。
注)このように、神殿を通路代わりにしていることは、ルカは問題にしていません。(マルコは、神殿を通って物を運ぶのも禁止したことを記している)

 そして、重要なのは、「神殿から商人を追い出す」事ではなく、神殿が清められたということです。神殿の中では、商人と祭司の利権が働いていたことが容易に予想されます。商人たちは独占的な利権を利用して、献げ物から手数料以上の利益をむさぼっていたわけです。そして、その利益で、祭司たちの懐を潤していたのです。

『祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、19:48 どうすることもできなかった。』


 この記事から見て、強盗とは祭司長、律法学者、そして民の指導者たちと言うことになります。商人たちは、追い出されっぱなしであって、何も反応が書かれていません。そういう見方からも、この仕組みは彼らが作り上げたものであることが明らかです。祭司長、律法学者たちは、神と民を引き合わせる職業であるにもかかわらず、お金という「偶像」を礼拝していました。エゼキエルの時代と同じだったのです。