ローマ8:1-17

神の子たちとなる


1.霊による命

 パウロは、イエス様を信じてキリスト者になった者に対して、罪に定められることはないと宣言します。

罪を取り除く:神様は、救い主であるイエス様を人の姿でこの世に送り、十字架でその罪を処断。

      (イエス様の死によって、私たちの罪は贖われた)

霊によって歩む:罪を贖われた者には、律法の要求が満たされ、もはや肉ではなく霊に属する。

      (信仰によって、霊が私たちの内に宿っている限り、霊の支配下となり、救い主の支配下に)

霊は義によって命に:私たちの体は罪で死んでいても、キリスト者の霊は、神様の霊の義によって命となる。

      (キリスト者の霊は、義である「イエス様を生き返らせた神様の霊」とともにいる。)

これらの、真反対が「罪が取り除かれずにいる」「肉の欲のまま生きる」そして「肉体は罪によって死に」という事になります。死の原因は罪です。人が罪を犯すのは 罪が取り除かれなかったので、肉の欲のままに生きる事が原因であり、肉の欲のまま生きる原因は肉に従って生きる生き方に陥ったままだからであります。それに対して、命の原因が神様の霊の義にあります。私たちが義とされるのは 信仰によって罪が取り除かれたのであり、その信仰は、神様の霊に従って生きる生き方によって与えられたものであります。



2.神の子たちとなる

  8章12節では、「肉に従って生きなければならない義務はない」とパウロは教えます。「肉に従ってしまう性質」のことをアライブ聖書では、もう少し具体的に、「自己中心な性質」と訳しています。

自己中、つまり自己中心的な性質とは、そのまま「肉の思い」とか「罪の性質」と考えてよいでしょう。パウロは、「肉の思い」にしたがって生きるならば、その人は死ぬと言いました。一方で、「肉の思い」の要求に従うのではなく、霊によって、肉の思いと肉の仕業を絶てば、死ぬことはないと言う事です。

  ところで、聖書では「義務」と訳されていますが、その元の意味は、お金を貸して頂くという「恵み」を受けたために、そのお金をお返しをする「義務」のことです。ところが、「肉の思い」で得られるのは「恵み」ではありません。ですから、「肉の思い」のために返さなければならない、負い目や借金があるはずもないのです。逆に、「肉の思い」を絶ち切って、神様を信じて神様の霊に従うならば、たくさんの恵みが与えられます。そして私たちには、神様に対する負い目ができるのです。つまり、良いものを受け取ったその「恵み」に対する借りが神様との間にできます。ですから、その借りのためにも、神様の霊に従う義務ができてくるのです。

  では、私たち神様を礼拝する者が神様の霊に導かれるためにはどうすればいいのでしょうか?。言葉にするのは、簡単です。例えば、「み言葉によって導かれることを求める」、「聖霊に導かれる」、「みことばが与えられ、その教えに倣う」と言う事でしょうか? そして、そのために祈る。・・・ただ問題なのは、実際にできることの間にはギャップがあることです。 

 パウロは、このような言葉で励まします。 神様の霊、聖霊によって導かれている人々は、「すでに神の子たちなのだ」と言う事ですね。私たちは、つい行いを見て、その結果に目をやってしまいます。しかし、パウロはその結果を待つのではなく、聖霊によって導かれる段階でも、神の子たちとされると宣言します。もし、聖霊の導きがあっても、その結果次第で「神の子たち」とされたり、そうではなかったりするのであれば、私たちは聖霊の導きがある度に、緊張もするでしょうし、結果を恐れてしまうでしょう。しかし、 聖霊は、「人を恐れに陥れる霊」ではありません。聖霊は、必ず私たちに平安をもたらします。ですから、パウロは言いました。

『8:15 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。』

 アッパはアラム語でイスラエルの人々が使っていた「お父さん」という普通の言葉です。聖霊が働くことによって、私たちは必ず神の子たちとされますから、私たちは、神様を「父よ」とか「お父様」とか呼ぶことが許されているのです。パウロは、聖霊が働かれた段階で、すでに成就する事が約束されていると考えたのです。また、あるべき姿になったかどうかという事、つまり「結果よりも、私たちが聖霊の働きによって変わろうとした努力の方が大事」と考えられます。イエス様が送ってくださる聖霊は、そのように全責任を担ってくださるのです。そして、必ず良い結果と、私たちの平安を導いてくださるのです。

 私たちは、「神の子たち」なのですから、神様の意思を引き継ぐ相続人だと言えます。「神の子たち」が、聖霊に導かれて生きることは、神様の相続人としてふさわしい生き方です。私たちは、神様の相続人であるために、イエス様と同じ苦労を共有しています。ですから時には、イエス様と共に苦難に遭うことが起こるでしょう。しかし、安心してください。イエス様は、私たちが乗り越えることができないような苦難を与える様な方ではないのです。また、乗り越えられない私たちを罰することもありません。ですから、イエス様が聖霊を降した段階で、私たちは「神の子たち」とされるのです。それが、ご計画だからです。