コリントの信徒への手紙一6:12-20

自由の律法


※自由の律法

「自由の律法」とは、キリスト教において、聖書の中に記された「キリストの律法」のことです。それは、「聖霊によって心に書き記される愛の律法」であり、主イエス・キリストが説いた「新しい命令」の一つです。この律法は、人々が自由に生きるために必要なものであり、自由を保障するものでもあります。また、この律法は、人々が互いに愛し合い、互いに尊重し合うことを求めています。

1.なんでも許されるのか?

 コリントの教会の人々は、使徒パウロが「自由の律法」を教えるのを聞いて、その教義を、「人が望むことを何でもする権利を意味する」と理解してしまいました。この実践で満足したのでしょうか、この考えは「キリスト教の自由の権利」という名前で維持されました。

彼らの合言葉は、「わたしには、すべてのことが許されている。」でした。この飛躍がどのようにして生まれたのかは、容易に推察できます。突然、ユダヤの律法の制約から解放されたことに気づいた人々は、当然のことながら、従来の縛りから非常に大きく踏み外してしまいました。それに対して、パウロは、クリスチャンの自由は制限されていると宣言して、これに対応しました。

 クリスチャンにとって。選べる自由には2種類あります。自分の肉欲のままに生きる自由。神様の御心に叶うように生きる自由。究極的には、選ぶ自由はありはするのですが、他人の自由や利益を害する選びは、得策ではありません。争いになるからです。そして神様の御心に叶うことを選ばないのは、罪を犯しているのと一緒なのかもしれません。それでは、福音を宣べ伝える役割を担うことは難しいのです。このような理由で、自分の利益と他人の利益、そして神様のみ旨のどれもが満足するような選びをしたいはずです。そこには、「わたしには、すべてのことが許されている。」との考えは、通用しません。

2.私は誰の力にも支配されません

 すべての物事は、自由な自己決定で決まります。自分の意志を通しさえすれば、何事でも自儘に享受しようとしたり、肉欲を抑えたりすることができます。これは、外面的自由です。一方で、キリストによる解放された人間として、クリスチャンは自由になる権利を持っています。これは内面的自由であります。神様の前でいかなるクリスチャンも平等で自由です。ですから、他の人々の自由を保証しなければなりません。また、神様のみ旨を、受け止めるかどうかも自由ではあります。しかし、神様のみ旨に逆らうことはもはや困難であります。なぜならば、私たちの体は、キリストの体の一部だからです。私たちが、内面的に誰の力にも支配されないのは、キリストと一体だからです。そして、キリストと一体であるならば、平等で内面的な自由がありますが、それはキリストと一体であるとの範囲の中の事であります。いずれにしろ、自由を行使することには、結局は自由の放棄も伴います。

 「I may」を「I must」に変えられてしまうならば、自由が束縛されることになります。束縛には、逮捕・拘束・禁止・命令等があります。これらは、行動の不自由(外面的)です。この行動の不自由では、「何を感じて、何を思うかの自由(内面的)」は、束縛しきれません。例えば、毎週礼拝に出るように束縛された場合、「なんでそんなことを・・・」とか考えるならば、それは内面的な不自由を生みます。一方で、「いいことがあるのかな?」とか「楽しみたい」と考えるならば、内面的に自由であるわけです。

3. 自然の権利についての嘆願

 この部分は、パウロが敵対者の嘆願を否定したものです。

(1)「食物は腹のため、腹は食物のためにある」、これは自然な対応に見えますが、嘆願の趣旨はこのパウロの言葉から想定できます。

『体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。』

嘆願者は、「みだらな行いも自然のことだから、悪く言われる筋合いが無い」と言ったと思われます。

(2)みだらな行いの一時性。「神はそのいずれをも滅ぼされます。」。それは永遠のものではないし、罪であり、自然のものとして永遠のものと考えるのは愚かなことです。

4.パウロの答え

(1)「体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。」

パウロは、より正確な相互対応について語っています。


「食物は腹のため、腹は食物のためにある」⇔「体は主のためにあり、主は体のためにある」

  食欲を満たす    栄養をとる      主の働きを手伝う   私を守る 


 このように対比してみると、実は嘆願者の言っていることは、きれいな対応ではありません。つまり、世俗の言葉で言う、ギブ・アンド・テイクのような対等に貢献しあう関係ではなく、上流と下流の関係であります。腹が食べ物に依存しているのに、意図的に相互依存しているような表現にして、嘆願に使ったと思われます。ですから、本質的に嘆願の内容は、欲得のままに生きることであって、相互に役立つことなど視野に入っていません。

 一方で、「神様は真実であり気高い本性を持ちます」と、パウロは語っています。私たちは、神様から多くの導きと助けを頂いています。それを一方的に受けながら、腹を満たすことの自然に任せていたのでは、あまりにもバランスに欠くと言えます。もちろん、神様からの恵みと等しい価値の働きができるわけではありませんが、神様の働きのために役立っていきたいものです。


(2) もう一つの嘆願に対して、パウロは答えます、「体は滅びません」。肉体は、一時的な身体の外見上の形です。しかし、「キリストと一体」である私たちの霊の体は、キリストの霊によって一体として支配されるべきものです。そして、キリストと一体の霊の体は、不滅なのです。