ルカ19:1-10

救いがこの家に

2021年 1017日 主日礼拝     

 「救いがkの家に

聖書 ルカ19:1-10

 

ルカによる福音書から、徴税人ザアカイの物語です。このザアカイの物語は、ルカによる福音書にだけあり、マタイにもマルコにもない記事です。

徴税人とは、その字の通り税金を集める人です。その当時のユダの国では、この職業はたいへん嫌われていました。その理由は、税金を集める権利をローマから買って、税金を取り立てたからです。また、税金にはいろいろありますが、特にローマに納める1/10税が、嫌われたようです。それは、ユダの国とは呼ばれるものの、実質的には植民地であることを示すからです。ユダヤの国は、ローマの支配下である事の証に収入の1/10を納めているわけです。このような税金を属国から集めて、ローマ帝国は成り立っていたのです。税金を集めるのはそれなりに立派仕事なはずなのに、徴税人は罪人(つみびと)扱いをされていました。罪人と言われるのは、犯罪者だと言う理由ではありません。ただ単に、徴税人はひどく嫌われていたのです。その例をルカによる福音書18章から挙げてみましょう。ここでは、ファリサイ派の人と徴税人を比べていますが、ファリサイ派の人と言うのは、ユダヤ教の指導をする立場の人で、律法を教え、律法を率先して守っていました。そういう人たちの中には、「自分は正しい側の人間」と根拠もなく誇る人もいたのだと思います。

ルカ『18:9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。18:10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。18:11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。18:12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』18:13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』

18:14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」』

このみ言葉を読みますと、「徴税人が罪人の代表」であるようにこのファリサイ派の人が言っています。しかし、徴税人は律法を守らずに不正をしているとは、言っていません。ですから、ローマの手下として、ユダヤの民を支配しているいわゆる「裏切り者」として、嫌われているようです。ファリサイ派の人は、律法を守っていますし、徴税人の様にローマの手下となって、税金を集めることはしません。むしろ、ローマに反発している立場です。ですから、ファリサイ派の人は「自分は罪を犯した覚えがない」ことを誇りとしていました。たぶん、ひどい勘違いでしかないと思うのですが、勘違いしているからこそファリサイ派の人は自画自賛の上で神様に感謝します。神様にその感謝は届くのでしょうか?一方で、イエス様の言われるには、『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』と祈った徴税人のほうが神様によって義とされたということです。律法を守っているこのファリサイ派の人ではありませんでした。

イエス様は、ファリサイ派の人々のことをこのように批判的に言われることがたびたびありましたが、決してファリサイ派の人々すべてと争っていたわけではありません。イエス様が教えた場所の多くはシナゴーグです。それは、ファリサイ派の人々が礼拝と教育のために建てた会堂ですので、各地で、ファリサイ派の人々に受け入れられていたのが事実です。しかし、中には「自分は正しい人間だとうぬぼれて、「他人を見下している」そのような問題がある人がいるので、時々批判をされているということです。

さて、ファリサイ派の人と徴税人について説明しました。今度はザアカイのことを説明します。徴税人の頭とされています。別の翻訳に依りますと、税務署長(アーケィテルオーネイス:ἀρχιτελώνης)となっていますので、直接ローマから税金の取立てを請け負っていたと思われます。そして、実際に税金を集めるのは、そのザアカイの手下ということでしょう。エリコの町は、交通の要衝ですから、交通税も取っていたでしょうから、エリコの町で一番の金持ちなのかもしれません。そして、背が低かったことがわざわざ聖書に書かれています。ザアカイは、お金や、権力を使えば、何でも手に入っていたはずです。しかし、ユダヤの民には嫌われていますし、背丈もなかったのです。そういう点を挙げてみると、たいへん豊かなザアカイでも、手に入れることが出来ないものがあるのです。しかし、背が低いことは大きな障害にはなりません。ザアカイは先回りしていちじく桑の木に登ってイエス様を待ちます。どうしても、イエス様を見たかったからです。そのとき、もしその気になればザアカイは、護衛の者を使って人々をかき分けて進むこともできたでしょう。しかし、ザアカイはそのようなことはしませんでした。また、イエス様を自宅に招くことも、「どうせ受け入れられないのだろうな」とあきらめていたのでしょう。「徴税人の家に入ると、一日汚れる」とその当時の口伝律法にはあったからです。たぶん、イエス様をザアカイの家に招いたら、民衆の反発をうけることでしょう。それでも、イエス様には会いたい。その気持ちがザアカイをいちじく桑の木に登らせたのでした。お金と権力で得られるものは全て持っているザアカイですが、何がザアカイをそこまで動かしたのでしょうか? ユダヤの民には悪く言われているものの、ザアカイはそれなりに努力を積み上げて今の立場になっています。そして、本当は満足して自分にお疲れ様と言いたいところだと思います。しかし、ザアカイはどこか満足できていないことに不安を抱いていたのだと思います。嫌われ者でも、背が低くても、人並み以上の努力をして徴税人の頭となりましたが、だれもザアカイの友となってくれない。そんな悩みがあったのかもしれません。また、イエス様の言葉やイエス様の噂を聞いていて、『だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」』そのことばに望みをかけ、そしてイエス様に『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』と訴えたかったのかもしれません。

そういうザアカイに、イエス様は答えてくださいます。

『「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」』エリコの町の人に囲まれているイエス様ですから、ザアカイが木の上から覗いていることは、知らされていたのでしょう。ひょっとして、イエス様はエリコの町のザアカイを目指してきていたのかもしれません。そして、罪深いとされる徴税人のザアカイの家にイエス様は泊まると言います。ザアカイは、喜んでいます。ザアカイ自身イエス様を迎え入れることを望みながら、イエス様を汚すことはできないと思っていたのでしょう。それが、実現するのですから。

ファリサイ派の人がこのことを聞いたら、罪人のところに泊まるのか?と反対するに決まっているのですが、イエス様は、あえてザアカイの家に泊まると言いました。そして、やはり、イエス様は批判されます。

『9:7 これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」』

 

 イエス様は、批判されることを承知で、ザアカイの心の救いのためにこのことを起こしたのです。なぜなら、ザアカイには救いが必要だったからです。ザアカイは孤独だったのでしょうから、イエス様以外は友となろうとしないでしょうから、この時がザアカイには夢のようなことでした。早速、最大限の接待をした事でしょう。そして、最大限の接待とは、豪華な食事などではありません。

ザアカイは、イエス様にこんな約束をしました。

「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」

 ザアカイは、自分の罪を知っていました。そして、それに苦しんでいたのだと思います。具体的に言えば、貧しい者からも税金を多めに取り立て、そのためにザアカイは豊かだったからです。しかし、それを止(や)める決心はこれまでついていませんでした。そして、人々に嫌われ続けていたのです。豊かになった代償は大きいものでした。しかし、その豊かさを失ってしまうならば、ザアカイには何にも誇るべきことは残りません。やはり、豊かであることを手放すことは決断出来なかったのです。

 ところが、イエス様に声を掛けられると、ザアカイはイエス様に特に何も言われないうちから、『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』という態度をとりました。イエス様にすがって、自身が救われることを願ったのです。

イエス様はザアカイに言います。

 『「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。19:10 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」』

 

 もうすでに、ザアカイは救われていたのです。イエス様は、そのことを告げます。すでにザアカイは、イエス様を信じそして信仰の道に入っていたのです。そして自ら進んで、ザアカイは自分の力の及ぶ範囲で出来ることをイエス様に約束したのでした。この後どうなったかは、聖書には書かれていません。ザアカイは、誰かに監視されなくとも、その約束を守った事でしょう。そして、ザアカイの富は半分以下に減ったと思われます。しかし、友達がいない、嫌われものの職業というコンプレックスから救い出されたのだろうな と想像できます。たぶん、そのようなコンプレックスをエネルギーとして、税金の徴収を厳しくしてきたのでしょう。それがまた嫌われる原因となると言う悪循環なわけです。しかし、今日ここで、その悪循環が断たれたのだと思います。

 

 今日はザアカイのお話でした。ザアカイはエリコの町にすんでいましたから、エフライムの土地になります。この当時アブラハムの子孫の12部族の内、ユダとベンジャミンを除いて、10部族は失われていました。しかし、ザアカイも確かに12部族の一人であるのは間違いありません。こうして、神様から遠のいてしまった部族であっても、そして罪深いと言われている職業であってもイエス様は、信仰に立ち返ることを望んでおられます。そして、イエス様はサマリヤの地やガリラヤなどの失われた10部族の住む町を伝道していたのです。こうして、イエス様は信仰を失っていた者がイエス様を信じ、そして教会に戻って来ることを願っています。

ザアカイは、罪を犯した自身を憐れんでくださるようイエス様にすがりました。その時点でイエス様から罪が赦されているのです。そして、ザアカイは、永遠の命を頂きました。失われた10部族だからイエス様の平安に与る資格が無いとか、罪を犯しているから救いがかなわない等ということは、無いのです。イエス様は、すべての人を信仰に導こうとされています。イエス様の恵みの中に入るためには、特に何が必要なわけでもありません。「神様私は罪を犯したかもしれません」「神様ごめんなさい」「神様罪深い私を憐れんでください」という、祈りがイエス様に聞かれたのです。ザアカイは、小柄だったせいもありますが、子供の様な心でイエス様を見たかったのでしょう。木に登ってしまいました。普通大人はやらないですね。そこまで、まっすぐにイエス様を求める気持ちを表しているザアカイにイエス様は語りかけたのだと思います。聖書には、その辺は細かく書いていませんが、おそらくザアカイは、心から罪に染まっているのではなく、いつかこの生活から逃れられる時を待ち望んで、イエス様に期待して、イエス様を一目見ようとしていたのです。こうして、ザアカイの背中に乗っていた重荷は、イエス様が代わって担ってくださいました。

 イエス様は、この子供の様な求めを喜んで受け入れてくださいます。また、私たちのことをも、同じようにイエス様はいつでも喜んで受け入れてくれます。罪を犯さない注意は出来ても、罪を犯すことから逃れられない私たちにとって、このザアカイの救いこそが、私たちの救いを象徴し、約束されたものと確信することが出来るのです。

ザアカイのように、イエス様にすがり、そしてイエス様にお返し出来ることを捧げてまいりましょう。そうすれば、救いと平安がやってきます。そう、信じましょう。