マタイ16:1-12

人々はしるしを欲しがる

  

1.人々はしるしを欲しがる


イエス様を試そうとしているファリサイ派とサドカイ派の人々は、本来の意味でしるしを欲しがっているのではありません。人々とは、このファリサイ派とサドカイ派の人々を除いた人々と考えた方が良いでしょう。なぜならば、ファリサイ派とサドカイ派の人々は、人々がしるしを求めている事を利用して、イエス様に「しるし」を示してもらうよう、要求することがイエス様を苦しめることだと思ったからです。その目的は、イエス様がメシアなどではないことの立証です。イエス様にしるしなど示せるはずがない。だから、イエス様にしるしを求めれば、失敗するか、だらだらとしるしを見せずにやり過ごしていくうちに、イエス様の人気がなくなることを期待していたのです。つまり、イエス様を信じていない。それが、ファリサイ派とサドカイ派の人たちだったわけです。

イエス様は、彼らに対して、「天気を見分ける」しるしは知っているのに、「時代のしるし」は、見ることができないと言います。このニュアンスは、しるしは起こっているのに、見る目がないと言っているわけです。そしてよこしまで、神に背いた者は「しるし」を欲しがると言います。よこしまな者、神に背いた者がなぜ神様のしるしを欲しがるのでしょうか? その答えは簡単です。よこしまなことを行うために、そしてさらに神に背くためにその「しるし」を使いたいからです。しかし、三日の間、黄泉の世界に居て(魚に飲まれて)、復活する(帰還する)というイエス様の復活の預言(ヨナのしるし)以上のしるしは、起こらないとイエス様は言います。ヨナの「しるし」は、イエス様の「しるし」だからです

 


2.パンだね

 

弟子たちも似たようなものです。何度も イエス様の「しるし」を見てきていますが、それでも弟子たちはまだ しるし とは受け止めていません。先ほどの1節でファリサイ派とサドカイ派の人々が イエス様にしるし を見せるように言いますが、その後舟に乗ったときに、パンを持って来るのを忘れていました。そのとき イエス様は弟子たちに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われたのを聞いた弟子たちは、その意味がわかりませんでした。「パンを持ってこなかったことを言われた」と考えたのです。なぜかと言うと、弟子たちも「しるし」に気が付いていないからです。「しるし」を見ているにも関わらず、そのことに気が付いていないからです。そして、まだ十分にイエス様を信じていませんので、そのためには 「しるし」が必要だったのです。つまり、弟子たちも「しるし」を求めている人々であったのです。

 

ファリサイ派とサドカイ派の人々は、イエス様が神でないことを証明する しるしを 欲しがって、イエス様に「しるし」を要求したのですが、弟子たちは「イエス様が何者であるかを知りたくて」結果として「しるし」を見たかったからです。マタイでは、弟子たちは、「パンだねのことを教えのことだと悟った」と書かれていますが、その前段階のところで、イエス様が神様であることは、まだ悟っていないのです。

 

 分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。等イエス様は弟子たちに問います。

 

 ファリサイ派とサドカイ派の人が出てくると、それにつれ、しるしがしょぼくなって来たと言う意味では理解できると思います。5つのパンで12かごのパン屑が残り、7つのパンで7かごのパン屑が残りました。残ったパンが「しるし」であることは間違いがありません。「しるし」が減っているのです。これは、集まった人々の信仰が弱くなったことを象徴していると思われます。決して、イエス様は、ファリサイ派とサドカイ派の人々が来たときにそのパン屑の入った籠を「しるし」として見せようと思っていたわけではありません。パンを持って帰っていなかったからではなく、群衆が集まると現れるファリサイ派の人々や律法学者によって、群衆の素直な信仰に影響があることに警戒していたのです