マルコ14:26-42

  心は燃えていても

 最後の晩餐を終えると、イエス様と弟子たちは賛美をしながらオリーブ山に向かいました。イエス様は、ゲッセマネの園で祈るために出かけたのです。この中にはイスカリオテのユダはでてこないので、最後の晩餐の後すぐに別行動に入ったか?ゲッセマネの園の前で8人の弟子たちと座っていたか?だと思われます。

1.ペトロの離反を予告

 イエス様は、弟子たちに「あなたがたは皆わたしにつまづく」と言いました。イエス様は、ゼカリヤ書13:7を参照して『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだと説明します。

ゼカリヤ書『13:7 剣よ、起きよ、わたしの羊飼いに立ち向かえ/わたしの同僚であった男に立ち向かえと/万軍の主は言われる。羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。わたしは、また手を返して小さいものを撃つ。』

剣は、暴力による死を表しています。私の羊飼いはイエス様で、羊は弟子たちです。この預言は、ゼカリヤが神様からいただいた言葉を取り次いでいるものですから、わたしとは、神様のことです。ですから、神様が剣に向かってイエス様を殺すように指示をしているのです。「神様と一緒にいた男(イエス様)を殺せ」と万軍の主である神様は言われたのです。そして、その結果として羊飼いがいなくなった羊たちは散らされるのです。ゼカリヤの預言はここまでですが、イエス様は「復活したのちに、先にガリラヤに行く」ことを弟子たちに話します。これは、ガリラヤに集まりなさいという命令になります。

 ペトロは、このイエス様の言葉に「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言いますが、イエス様は予告します。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」 弟子たちがみんなイエス様についていかなかったとしても、ペトロ一人だけでもイエス様についていくつもりです・・・というペトロの宣言でしたが、イエス様はより具体的に「わたしのことを知らないと言う」と予告されてしまいました。弟子たちはみんなが、「イエス様のことを知らないなどとは言わない」と言いました。

 ここでは、弟子たちは、イエス様の言いたかったことを聞き間違えていると思われます。イエス様は、「一度弟子たちが散ることになるけれども、復活したらガリラヤに集まりなさい」という、この後の指示をしていたのですが、弟子たちは「散る」ことを非難されているように受け止めたのでしょう。そして、弟子たちには厳しい現実を知ることになります。すべての弟子たちは、イエス様が捕まると誰一人イエス様についていくことをせずに、散ってしまったのです。

2.ゲッセマネの祈り

 ゲッセマネの園は、オリーブ山のふもとの方にあります。名前の通りオリーブが植えられている山で、そこにはオリーブを絞るための設備があったようです。イエス様はペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、ほかの弟子たちには座って待つように言います。ペトロ、ヤコブ、ヨハネに「ここを離れず、目を覚ましていなさい」と言って、イエス様は3人から離れます。神様に祈るためです。

 『アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。』

イエス様は、自分が死ぬことを知っていますから、神様にそのことが起こらないように祈ります。しかし、「イエス様の願いではなく、神様の御心のままにしてください」 とも、祈ります。完全に人間となっていたイエス様ですから、死はやがて訪れます。そればかりか、明日にでも殺されることがわかっていますから、イエス様でさえもその死を受け入れることが出来なくて、神様に祈ったのだと思われます。

 イエス様が3人のところにもどると、3人は寝ていました。一時間ほどしかたっていないのに、起きていられなかったのです。イエス様は、慰めるように言います。

『14:38 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」』

 そして、また一時間祈って戻ってくると、3人は寝ていました。それから、もう一度同じことを繰り返します。眠たかったようですが、イエス様が真剣に祈っている間、弟子たちは祈り続けることができなかったのです。弟子たちも、イエス様が殺されて、復活することをイエス様から聞いて知っていましたが、今、それが起こるとは知らなかったのでしょう。この時の3人は、ここしかないというような「祈る機会」をいかせず、眠ってしまいました。そして、とうとうその時が来ました。3度目にイエス様が戻ってきたときに、イエス様は弟子たちにその時が来たことを告げます。

『あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。14:42 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。』

弟子たちは、言い訳ができませんでした。イエス様は、「もうこれでいい」と、休んでいたことを咎めませんでした。人の子であるイエス様は、罪人たち(神様をしらない人=祭司長たち)に引き渡される時がきてしまったのです。もう、祈る努力をする時は過ぎてしまいました。もうすでに、裏切り者のイスカリオテのユダが祭司長たちに遣わされた剣と棒をもった群衆を連れて来ていたのです。