2020年 6月 7日 主日礼拝
『聞くことによって始まる』
聖書 ローマの信徒への手紙10:5-17
(参考:ロマ書が引用した旧約箇所)
『掟を守る人は掟によって生きる』
レビ『18:5 わたしの掟と法とを守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる。わたしは主である。』
『心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。』
『『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。』
『御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。』
申命『30:11 わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。30:12 それは天にあるものではないから、「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。30:13 海のかなたにあるものでもないから、「だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。30:14 御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。』
『主を信じる者は、だれも失望することがない』
イザヤ『28:16 それゆえ、主なる神はこう言われる。「わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石/堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。信ずる者は慌てることはない。』
『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』
ヨエル『3:5 しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように/シオンの山、エルサレムには逃れ場があり/主が呼ばれる残りの者はそこにいる。』
『良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか』
イザヤ『52:7 いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる。』
『主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか』
イザヤ『53:1 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。』
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おはようございます。6月に入り、ようやく礼拝が再開できました。今年は新型コロナウィルスの影響で、教会も大きな試練、ウィルスという身体的な面での心配だけではなく、外出を控え、人と会うことを控えるという、精神衛生上の心配も加わってきています。ですから体調管理とあわせ、気分転換をすることを皆さん考えてください。そして、コロナのために社会全体が活動自粛をしたことによって、経済的な影響は大きくなりますから、早く元の状態になるよう、祈ってまいりましょう。コロナの影響で、教会に駆け込む人が出てくるだろうと考えると、私たちは教会の扉は開け続ける必要があります。
教会では、週報にも書きました通り、必要なコロナ対策をしながら、徐々に活動を戻していきます。ウィルス問題が収束するのは、年単位の時間がかかります。その間、教会は社会の一員として、ウィルスが蔓延することを防止する責任がありますし、私たちの信仰を守ることも大事です。
ですから、政府や都が発信する情報を参考にしながら、適切な対応を考えていきたいと思います。多くの教会で、礼拝の自粛や教会のロックアウトが行われてきましたが、近隣教会からの強い指摘で、礼拝を中止にせざるを得なかった教会が結構あるようです。礼拝再開についても、同様な事が起こると予想されますが、そのようなお話があった場合は、牧師に教えてください。執事会にて、適切に判断していきます。私たちは、必要と思われる対策をして教会活動を再開します。その点は、よくご理解と協力をお願いしたいと思います。例えば、教会堂内での密防止、手洗い、マスクの徹底のほか、主の晩餐での配餐を含め、教会内での食べ物の提供は当分の間できません。また、教会学校や信徒会等についても再開する時期を今後決めていきます。
さて、私が、5月に正式赴任して、最初の礼拝となりました。まだ皆さんに直接お話が出来ていないので、年間聖句などについて、簡単にお話します。
教会のテーマ:祈りの充実
主題聖句「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。
そうすれば、そのとおりになる。」(マルコ11章24節 )
5月に配信している宣教原稿にも、祈りを強調させていただいています。この教会の今年の活動、5年ぐらいの間の歩み、そしてその後について、多くの課題があると思います。その課題は、私たちの力の範囲で、乗り越えることは難しいかもしれません。それでも、神様に祈り続ける。そうすれば、神様が与えてくださいます。
皆さんで、祈っていきましょう。日曜日の礼拝の時間、水曜日の祈祷会の時間、教会に来れる人も来れない人も、時を同じくして祈っていけたら と考えています。
年間のテーマ:共に歩む
年間聖句「わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。」
(フィリピ3章16節)
この聖句は、先週の宣教原稿にも使いました。この聖句を簡単に言ってみますと、
「私たちは、出来ることをから始めるべき」ということです。この経堂バプテスト教会の群れで目指していきたい事について、ここ1年間みなさんとじっくり話し合いたいと考えています。残念ながらコロナの影響で、教会学校や信徒会や総会等の 話し合いの機会は、しばらくはできません。再開できた時には、是非参加いただくようお願いします。そして、教会は原則開けておきます。夜間でも、連絡いただければお会いしてお話が出来ますので、そのような互いに祈りあえる機会を大事にしていきましょう。
そういう意味を込めて、今年の年間聖句に選びました。皆で祈っていきましょう。
今日の聖書の箇所は、聖書の引用箇所が8カ所と多くて、ロマ書の中でも、読みにくい所だと思います。使徒パウロは、ローマのクリスチャンに手紙を書いたわけですが、当時の手紙は、宣教として教会の礼拝で共有していたようです。各地の教会では、礼拝の中でその手紙を読上げたということですから、パウロがローマの教会に送った説教と考えてもよいと思います。
パウロは、レビ記から モーセの残した「掟を守る人は掟によって生きる」と言う旧約聖書を引用しています。「信仰によって義とされる」と言ってファリサイ派の人々を批判していたパウロが、「掟」については否定していない と読み取れるので、その理由を考えてみましょう。
ここで、モーセの言っている掟とは、神がモーセを通して与えてくださった「十戒」のことです。一方、ファリサイ派の人々の言っている掟は、神様から頂いた十戒のことではなく、律法学者が作り上げた「律法の解釈」と「口伝された律法」です。律法とは、もともとモーセ五書(創、出、レビ、民数、申命)を指しますので、ファリサイ派の人々の言う律法は、かなり範囲が広くなっています。
最初の掟である十戒は、ファリサイ派の人々の「範囲の広い律法」と違って、知ることも、理解することも、守ることも、酷く難しいことではなかったのです。
また、文脈から見て、パウロの「掟」とは、「神様のみ言葉」を指しています。
「掟は守れる」し、手が届くものだとの前提をもって、パウロはこう言いたかったのだと思います。
「神様のみ言葉に従う人は、神様のみ言葉によって生かされる」。それは決して「律法学者に従う」事ではないし、「律法の解釈(すなわち 人の言葉)によって 人が生かされる」わけではないのです。
次に、そのパウロの言う「み言葉」について、考えてみましょう。
パウロは、申命記を引用しています。
「み言葉は、天にあるものでもなく、海の底の深いところにあるものではない」そして、「み言葉は、あなたのごく近くにある。あなたの口と心にあるのだから。」
当時の人たちは旧約聖書をそらんじていたようで、この聖句やその前段を説明しないでも会話できたようです。その前段とは、申命記30:11です。
『わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。』
つなげて読んで見ると、こんな意味になるでしょうか?。「『み言葉を行う』そんなに難し過ぎない戒めを与えたが、そもそもみ言葉は、天にあるものでもなく、海の深いところにあるわけでもない。皆さんの口と心の中にある。だから、『み言葉を行う』ことは、難しくはない。」そう言う、旧約聖書のメッセージをパウロは使いました。
その難しくないことを前提に、パウロは、「み言葉を天に探しに行くことや深い淵に探しに行く」ことは、「キリストを天から引き下ろしたり、キリストを死人の中から引き上げる事」と表現しました。み言葉は、私たちの中にあるのに、わざわざ探しに行こうとする。それでは、イエス様が私たちに下さった「私たちの中にあるみ言葉」から遠く離れてしまいますので、イエス様が私たちに与えてくださった、み言葉にあずかることが出来なくなります。もともと、天や深い淵を探す必要など、ないのです。イエス様のみ言葉は私たちの口と心の中にこそ あるのです。
パウロは続けます。
『10:9 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。10:10 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。』
口で「イエスは主である」と公に言い表す。とパウロは言いました。 どうして、心の中で「イエスは主である」と信じていては、ダメなのでしょうか?・・・
パウロは、「心で信じて義とされ」で止めずに、「口で公に言い表して救われる」と付け加えています。このまま素直に読むと、「信じていると義とされる」ことは明らかですが、「口で公に言う」ことが救われる条件だと読めます。
パウロは、「口で公に言う」ことをどのように考えていたのでしょう?
それでは、次のパウロの言葉に注目しましょう。「主を信じる者は、だれも失望することがない」です。ギリシャ語の新約聖書で、「信じる者は、だれも」の部分は、ヘブライ語をギリシャ語に訳されたものです。ヘブライ語聖書のイザヤ書では、「Amenと言う者」という言葉が使われています。Amenは、「確かに」とか、「支持する」の意味ですし、普通に信仰の表明と言えます。ですから、「Amenと言う者」は、信仰を「口で公にした者」と言えます。ですから、パウロは、「Amenと言う者」は、「救われる」と言っているのです。さらに、ヨエル書の「ヤハウェ(主)の名を呼ぶ者は、皆救われる」という部分を引用して、パウロは言います。「主の名を呼び求める者はだれでも失望することがない」。
「失望することがない」と「救われる」との言葉の違いがありますが、どちらにしても口で「イエスは主である」と公に言う者を指してのことです。イエス様を呼び求めている。そのことが、あなたの「救い」を齎すと、パウロは宣教するのです。
そして、救われるためには? パウロは、語ります。
救われるためには、まずイエス様を信じることが必要です。そして、信じるためにはイエス様のことを聞かなければ始まりません。そして、イエス様のことを聞くためには、宣べ伝える人が必要です。宣べ伝える人は、遣わされなければ、そこに来ることができません。
イエス様のことを聞くことから始まって、信仰が与えられますが、それを宣べ伝える人は、イエス様のみ言葉に聞いて行動をしたのです。私たちも、宣べ伝える人も、イエス様のみ言葉を聞いて動かされるのです。信じること、そして「イエス様が主である」ことを公に言うこと。そうして得られる「救い」。その原点は、み言葉を「聞くこと」であります。
ユダヤ教の教師(ラビ)たちは、文書で学ばせるよりも、直接シナゴーグで話して聞かせることを大事にしたそうです。例えば、宣教を録画や原稿で見るのとその場で聞くのでは全く違うようにです。イエス様のみ言葉があって、それに応答する。それを、会衆一同一体感をもって、聖書のみ言葉、賛美、み言葉の読み解き、感謝の祈り、賛美と繰り返す。そういった礼拝中の環境の中で、イエス様が語ったみ言葉に聞いて、応答の賛美をする。その繰り返しのうちに、私たちはみ言葉に深く聞く準備が出来てきます。そうした礼拝の環境は大事にしたいです。礼拝堂に兄弟姉妹たちが集まって、神様と会衆が一体になって礼拝をする時間を持つことは、必要なことです。そして、同じように聖書を読む時間、祈る時間も必要です。現代社会では、みなさん やることが多くて忙しいです。都合で教会に来られない場合もあります。そんなときにも神様のみ言葉に聞く努力をしていきましょう。礼拝で、み言葉を聞き、そして「アーメン」と唱和して、神様に応答する。そうすることで、私たちには、「救い」があたえられます。パウロの言うように、人にではなく、イエス様のみ言葉・聖書に聴いていきましょう。そうすれば、「失望すること」はありません。