1.光の子として
キリスト者は、世の慣わしに縛られるのでなく、神様に倣う者として生きることが求められています。神様に倣うと言うことは、キリストに倣うことだと言うことです。ここでは、キリストに属する「光の子として生きる」ことが命じられています。キリストの救いを知ったので、わたしたちを縛っていた「暗闇の業を離れ」無ければならないのです。
そのためにキリスト者が先ず心がけたい事として、二つのことが具体的に勧告しています。
『5:6 むなしい言葉に惑わされてはなりません。~』
『5:7 ~彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。』
むなしい(ケノスκενός):空、手ぶら、愚か、無駄なこと、無駄 。「やるせなさ」の意味はない
「空っぽな言葉に惑わされない」「神様に不従順な者の仲間にならない」
この二つのことは、現実の信仰生活への勧告として聞く必要があります。何も考えていない安直な言葉は、教会の中にも入り込みます。特に、若者はその魅力に引き入れられやすいのです。不従順な者の仲間にならない という戦いは、キリスト者とされた自分の存在を見つめ続けるということにほかなりません。
何が善であり、正義であり、真実であるかは、自分でわかると思っているならば、それは危険です。神様からの啓示を受けないで、判断するならば、それはいつか間違うことです。まずは、み言葉に聞き、「何が神様に喜ばれるか」を吟味する。そして、祈り求めることが大切です。そうしなければ、自分勝手な私たちは、「何が私を喜ばせるか」を基準として生きてしまうからです。
『5:11 実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。』
空っぽな言葉には、人を救う力はありません。反対に、人を破滅へと誘惑する恐るべき力と魅力を持っています。暗闇のこれらの言葉と、業に加わらないだけでなく、「それを明るみに出す」努力が必要です。加わらないだけで、黙認したのでは、暗闇の業を応援しているのと同じだからです。
『5:13 しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。5:14 明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。
「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」』
この世の「暗闇の業」を暴露せよとの命令が語られています。真実の光を持つ者が現れ、その光の言葉と行いによって、暗闇の部分に光を当てられ、白日のもとにさらされ、暗闇が光となるからです。
パウロはここで一つの大きな慰めを語っています。光の中を歩む者は、光を持ち、その歩む道がどうであるかをよく見極める目が与えられます。起きよ ということはそういうことです。むやみに前へ突き進むのではなく、どう歩むか自分の歩み方を見直し、聖霊によって新しくされて、生活を整えるのです。
2.愚かな者としてではなく
『5:15 愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。』
今まで気づかなかったことに気を配りながら・・・。と言うことですが、確かに 光に照らされていない道を歩むのは愚かです。足元をしっかり照らして、神様の御心であるかどうかを確かめながら歩むべきです。もちろん、むやみに歩んでいる人ほど、自分が無茶をしているとは思ってもいません。そういう意味で賢く自分を吟味することが大事です。
キリストの救いを知らず、霊的に満たされることのなかったならば、無分別な行動に流され、身を持ち崩すような生活をしていたかもしれません。しかし、キリストにある者の信仰は、御言葉と聖霊によって成長させられます。人は何かに満たされることを望みます。問題は、何によって満たされるかであります。
『5:18 酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、5:19 詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。』
パウロは、ガラテヤ書で『5:22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、5:23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。』と述べています。酒ではなく、霊に満たされることによる喜びは、取り消されることのない喜びの生活につながっています。霊に満たされるなら、それで十分満足です。
しかし、霊に満たされた者に向かって、パウロは、言います。
「5:19 詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」とのお勧めです。歌い合うのではなく、「語り合い」(ニュアンスとしておしゃべり)であることに注目してください。歌で自己陶酔するのではなく、神様を讃美しながら、会話を交わすことが大切なのです。そして、その讃美は「神様に向かって心から」なされる「ほめ歌」となるのです。
『5:20 そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。』
そのような信仰の歩みの中で、神様への感謝が生れるのです。いつも、主イエス・キリストのみ名によって、あらゆることに感謝する。そういう祈り、讃美がなされる教会には、いつも霊による喜びに満たされます。上から照らされている光、その光により光の子とされるキリスト者、この関係は、感謝と喜びの生活にしっかりと結び合わされます。