2025年 3月 9日 主日礼拝
『信仰によって義とされる』
聖書 ガラテヤの信徒への手紙 2:11-21
今日は、ガラテヤの信徒への手紙からみ言葉をお伝えします。この手紙を書いたのはパウロです。もともとこの手紙は、パウロが開拓したガラテヤ地方の教会に、混乱があったので書かれました。その混乱とは、偽の福音を語る律法主義者がいたことによります。そういう事情で、律法が大事なのか?信仰がもっと大事なのか?といったことがガラテヤの信徒の手紙に書かれているわけです。今日の箇所は、ペトロへの批判から始まります。1節から10節までにはこんな記事があります。パウロが異邦人であるテトスを連れて、イスラエルに上った時、使徒たちはパウロを異邦人のための使徒として立てました。一方で、ペトロたち12使徒は、割礼のある者への使徒として、イスラエルの民に伝道することになりました。つまり12使徒とパウロの役割を分担したのです。このとき、パウロが連れていたテトスは割礼を受けていませんでしたが、それでもエルサレムの使徒たちは受け入れたのです。そして、テトスに割礼を求めませんでした。ところが、今日の聖書では、そのときの話し合いの中心にいたペトロ(ケファと呼ばれていた)が、ある日突然別人のようになります。そもそも、ペトロは異邦人伝道を最初にした(マタイ10章)人の一人です。それが、急に異邦人との接触を避けだしたのです。具体的には、こんなことをパウロは言っています。
『2:12 ~ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。』
ペトロはエルサレム教会に忖度して、異邦人と一緒に食事をしなくなり、そして異邦人を避けるようになったのです。それは、たぶん本心からではなく、エルサレム教会からの批判を避けたということでしょう。ここで、問題なのは、割礼そのものではありません。「信仰だけでは救われない、割礼という儀式が必要である」という考えが良くないのです。パウロは、信仰そのものでない儀式や形で、救いを求めることに警戒しました。信仰が二の次になってしまっているからです。
もともと、割礼をはじめとする律法は、ユダヤの長い歴史の中で守られてきました。ですから、ある日急に「割礼はいらない」と言われても、とまどうのも当然であります。また、不安もあるでしょう。本当に、イエス様を信じる信仰だけで、ユダヤ人のような割礼がなくても、救われるんだろうか…と。その不安は、割礼だけのことではありません。今まで守ってきた律法は、簡単には捨てられないのです。・・・律法をすべて守らなくては・・・と不安がどんどんエスカレートすれば、結果的に元の律法主義に戻ってしまいます。このように、「異邦人にも、割礼が必要」との声が大きくなってくるわけです。また、その不安に付け込む形で、伝統を重んじる人たちは、割礼や、その他の律法を守ることを強制しようとしました。パウロは、その有様を「奴隷のようだ」と言いました。いつの間にか、律法に縛られて、律法に盲目に従う奴隷のようだからです。それは、マインド・コントロールに似ています。例えば、神の裁きや将来への不安をあおることで、人々の心を縛るわけです。そして直接的に、「律法を守らないと救いはない」と言われたらどうでしょうか?。律法を守らないと、神様に裁かれる…等と、不安や恐怖を抱きます。たとえ礼拝を守っている最中でも、そこに平安はありません。あるのは、不安と恐怖なのです。そして、困ったことに、律法に従って割礼を受けたとしても、平安はやってこないのです。その割礼が蟻の一穴になります。一度、そこを譲ると、すべての生活を律法に合わせざるを得なくなるのです。それではますます、律法の奴隷になってしまいます。
アンティオキアの教会の一部の人々は、律法によって人を縛ろうとしていました。そんな律法主義にはまらないために、パウロは、「イエス様を信じる信仰によって救われる」という福音を強調し続けました。
さて、パウロがテトスを連れてエルサレム教会に行ったとき、テトスは割礼を強いられませんでした。エルサレム教会の主だった人たちは、パウロを、無条件に異邦人の使徒としたのです。神様は、割礼を受けていない人々への福音伝道をパウロにゆだねた。・・使徒たちはこのことを認めたのです。すなわち、割礼がもはや不要であることが、このときエルサレム教会で承認されたのです。ですからエルサレム教会の中心人物であるヤコブやペトロも、ヨハネも、このことを認めていたはずです。
ところが、ケファと呼ばれるペトロが、変わってしまいました。今まで、ケファも異邦人と変わらない生活をしていました。ユダヤ人が異国で生活すると、特に困るのが食事です。ユダヤ人には、律法で食べてはいけないものが決められているし、肉の処理についても細かく規定があります。一般に食物禁忌とよばれる決まり事です。例えば豚は食べてはいけないのです。ところが、律法に従った食べ物が異国で手に入るか?とか、友人が食べている食べ物を拒否できるか?ということを考えると、なかなかこの食物禁忌を異国で守るのは、困難です。結果として、ペトロは「豚肉等を食べ」ていたと思われます。ペトロは、アンテオケキアでは、異邦人と同じものを食べたのです。ところが、律法主義的な人なのでしょうか?エルサレム教会の代表となっている主の兄弟ヤコブからの使者が来たときから、その食卓から離れていったのです。主の兄弟ヤコブに「ペトロは豚肉を食べている」等と告げられ、非難を受ける。それを避けたのだと思われます。そもそも、律法等で食べてはいけないものが決められていますが、これはどちらかというと生活の知恵です。傷みやすいものや、食あたりをしやすいものを避けるための決まりです。これは、割礼の問題とよく似ています。食べ物や行いによって、神様が喜ぶのではありません。しかし、人は他人の目を気にしてしまいます。
結局ペトロは、ユダヤ人からの批判を恐れたために、異邦人との食事を避けました。それを見て、ペトロと行動を共にしていたバルナバまでもがペトロの影響を受けてしまいます。・・・そこで、パウロは抗議するわけです。パウロは、今でこそ最も有名な使徒ですが、当時は十二弟子でもない下っ端の使徒です。その下っ端が、使徒のナンバーワンであるペトロに抗議するというのは、ただごとではありません。
『2:14 しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」』
ペトロは、ユダヤ人と同じ生活を強いたり、信仰による救いを否定したりしたわけではありません。しかし、ペトロの行為が、あたかも律法を守ることが必要であるかのような誤解をひきおこしていたのです。私たちも、注意したいところだと思います。礼拝や献金、奉仕その他の行いによって評価されたり、「守らなければならない」的な空気感は 無言の圧力だからです。
『2:16 けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。』
もし私たちが、自分の行ないによって義と認められよう、正しいと認められようとするならば、少なくとも律法の全てを守る必要があります。ところが、・・・それができないのです。モーセの律法は、誰も守れなかった事が その証拠です。
『2:17 もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。』
罪人である私たちに仕えてくださるイエス様です。しかし、イエス様は、決して罪に仕えているのではありません。罪にではなく、私たちに仕えてくださっているのです。私たちがイエス様を信じるから、罪人である私たちの罪を帳消しにして下さるので、結果として「私たちは義とされる」のです。パウロは、このキリストの教えのために、律法を取り去ったのです。
『2:18 もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。』
パウロは、自分自身が律法を否定してキリストの教えを伝道しているのに、律法に戻るなら、「キリストの教え」に違犯していると言います。
『2:20 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。』
イエス様を信じる信仰によって、救われ、そして生きている…。私たちの罪は、赦されました。私たちは、何も支払っていませんが、決してただで赦されたわけではありません。イエス・キリストの、あの十字架の犠牲があったからこそ、赦しが成し遂げられたのです。イエス様の命のかかった福音。命がけの愛があってのことです。だから、イエス様の恵みの救いを信じる私たちの中には、キリストが生きているのです。その恵みに、感謝しましょう。