ルカ8:40-56

安心して行きなさい 

2021年 6月13日 主日礼拝

聖書 ルカ8:40-56 (平行記事 マタイ9:18-26 マルコ5:21-43)

 

「安心して行きなさい」

今日は、6月第二週。花の日です。 米国メソジスト教会が始めた、教会学校の活動ですが、日本の教会にも浸透しています。子供の教会学校がある教会では、警察署や消防署を訪問して、感謝のお花を贈るなどの行事があります。そのために、教会員がお花を持って教会に集まって、花束を作るなどの準備をワイワイやります。小学生以下の子供が教会に来るようになれば、この教会でも出来るようになると良いと思います。

 

今日のお話は、マタイやマルコにも平行記事があって、3つの福音書とも、「ヤイロの娘」の出来事と「イエスの服を触れる女」の出来事が一緒に書かれています。つまり、この2つの出来事は、2つで一体の関係です。「ヤイロの娘」は、「イエスの服を触れる女」の出来事が起こっているうちに、亡くなってしまいました。また、「出血が止まらない女」は、会堂長ヤイロがイエス様を自分の家に来てくださいとお願いしなければ、イエス様の服に触れることは難しかったのですから。

また、「ヤイロの娘」は12歳で、「イエスの服を触れる女」も12年の間病気です。一方は、もうすぐ結婚適齢期を迎える年なのに死にかけている。そしてもう一方は病の治療のために全財産を無くしてしまっています。この二人の12年間の全てが失われようとしているのです。イエス様は二人の12年間を、そして家族やかかわった人々の12年間を取り戻してくださったのです。

 

イエス様は、ガリラヤ湖の南東側、つまり向こう岸のゲラサの地からイエス様の活動の拠点だったカファルナウムに戻ってきました。ゲラサでは、イエス様は一人の悪霊に取りつかれた男から霊を追い出しましたが、ゲラサの人々はイエス様を恐れて、受け入れませんでした。ゲラサの人々の信仰が弱かったのです。そのためもあって、イエス様はカファルナウムに戻ってきました。カファルナウムの人々はイエス様を喜んで迎えます。ゲラサの人々とは異なり、このカファルナウムでは、イエス様の教えと癒しを多くの群衆が求めていたのです。ですから、そこには深刻な病を癒してほしい人も来ていました。会堂長のヤイロがその一人です。ヤイロは、立場のある人ですから、イエス様が着いたら真っ先にイエス様に合おうとして舟着き場で待っていました。イエス様が舟から降りると、イエス様の前に出て来て足もとにひれ伏して、『自分の家に来てくださるように』と願います。 十二歳ぐらいの一人娘が、死にかけていたからです。聖書には細かいことまでは書いていませんが、イエスが到着した舟着き場に群衆が集まっていて、イエス様の到着を待っていたのでしょう。イエス様は、ヤイロの願った通りにすぐにヤイロの家に向かいますが、そこには多くの人々が集まってきていて、イエス様の前に出ようとも、人をかき分けないと前には進めません。地位のある者、力のある者は前に進めたでしょうが、それでもなかなかイエス様の前に出るのは簡単なことではなかったと思われます。そこに、『十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。』わけです。たぶん、群衆に囲まれているイエス様の前に出ようとしても、どうにもならなくて困っていたのだと思われます。十二年も病気をして、医者は誰も直すことが出来ませんでした。この女は、イエス様に直してもらうしかないと、イエス様の服の房をさわろうとしていました。しかし、この群衆では前に出ることはできません。また、じっとして、自分を見てもらえる時が来るのを待つとしても、それは何時になるかもわかりません。すると、チャンスがやってきました。ヤイロの家に向かって、イエス様の弟子たちが群衆をかき分けながら進んできたのです。その列の後ろにはイエス様がおられました。この女はイエス様の後ろに回って、イエス様の服の房を触りました。すると、その房に触れた瞬間に、彼女は癒されたことを知ります。

 

そして、彼女の病が治った、という事は、同時に社会への復帰が12年ぶりにかなう事を指します。12年間も汚れた者として扱われていた彼女です。そのことは、病以上に希望を失わせるものでした。ですから、イエス様に近づくにしても、目立たないように後ろからしか行けなかったのです。そして、病を治す様訴え掛けるのではなく、イエス様の服の房をこっそり触ることにしたのでした。それは、12年間も汚れた者として、目立たないように暮らしてきた習慣なのでしょう。ここで彼女の病が知られると、イエス様に近づくことも許されないことを経験上 知っていました。

ですから、彼女はイエス様の服の房を触ることを最初から目指したと思われます。彼女が触ったのは、外套の四隅につけられている房です。その理由は、イエス様の服の房には癒しの力があるとされていたからです。マタイにはこのような記事があります。

マタイ『14:35 土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、14:36 その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。』

(ここで、マタイで「服のすそ」と訳されていますが、原語クラスペドン(κράσπεδον)は、服の房を指します。)

これを見ると、イエス様の服に触れるだけで病が癒されると信じられていることがわかります。彼女も、それを信じてやってきたのだと思われます。もし、そうでなければ、彼女はイエス様の服の房で病が癒された最初の人だったのかもしれません。どちらにしても、彼女はイエス様の力によって病が癒され、そして社会に復帰できることを信じて、イエス様の服につけられていた房に触れたことには違いはありません。

その行為は、イエス様を汚すことでもあります。旧約聖書によるとレビ『15:19~彼女に触れる人は、夕方まで汚れる』ということです。彼女がしたことを知られては、大変です。イエス様が汚されたことを知ったら、群衆は帰らなければならないのです。

 

ところが、イエス様は汚されませんでした。イエス様は力が抜けて行ったことで、服の房を触れられたことに気が付いて『わたしに触れたのはだれか』と問います。しかし、周りにいる人々には、覚えがありません。そして、今はヤイロの娘を癒すために急いでいる場面ですので、誰がイエス様に触れたかを探しあてるのは時間がもったいないと思われました。そこでペトロは、『先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです』と言って、この場から離れるように促しましたが、イエス様は、この様に言われました。

『だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ』

イエス様は、誰かが「たった今」癒されたことに気づいて、どうしてもその人に会って言葉を掛けたかったのだと思います。こっそり、イエス様の服の房に触って、そしてこっそり誰にも何も言わずに帰る。これでは、病が癒されただけです。本当の意味で社会に復帰するならば、こっそり、そしてひっそりと生きることは良くないのです。イエス様は、彼女の心の癒しのために、彼女を探していたのです。

聖書は続けます。

『8:47 女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。8:48 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」』

 

イエス様は、何もとがめられませんでした。イエス様だったからこそ、汚れることなく、その女をも清めてしまわれたからです。イエス様でなければ、この女は人を汚してしまうところでした。この女は、イエス様を汚そうとして服の房を触れたのではありません。しかし、病から治りたいからイエス様の服の房を触れることは、イエス様を汚すことでもあったのです。だから、この女は、自分のしたことが恐くて震えていたのです。

 

それでも隠し切れないことを知って、彼女はイエス様の前に進み出て、『触れた理由と たちまちいやされた次第とを皆の前で話した』のです。大変勇気のいる事でした。そして、ひっそりと生きる今までの生活から解放された瞬間でもありました。

そこで、イエス様は、「娘よ」と語りかけます。『あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。』 イエス様は、彼女が病と闘い続けて、そしてひっそりと生き続けた12年の間、神様を信じ、そしてイエス様に今癒されるまで希望を持ってきました。そして、今震えながらもイエス様に身を委ねて、イエス様の前に進み出ているのです。イエス様自身、その姿を見て安心なさいました。

 

さて、少し時間がかかってしまいました。ヤイロの娘の命ことが心配ですが、イエス様はこの出血が止まらない女のことも心配してくださっていたのです。この女は、「不信仰のためにこのような病になった」などと周りの人々に言われながら12年間過ごしたはずです。イエス様は、その苦労をねぎらわれました。彼女の信仰を認められたのです。『あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。』これこそイエスの様の癒しのことばであり、本当の意味で彼女を救うことになったのです。

 

この間、ヤイロはやきもきとしていたと思います。そんなとき、会堂長の家から、『お嬢さんは亡くなりました。』という知らせが来ます。そして、『この上、先生を煩わすことはありません。』と言ったので、完全に医者、家族もあきらめたので、それを伝えに来たのでしょう。そんな状況の中イエス様は、ヤイロに向って、『恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。』と言われます。これは、出血が止まらない女の信仰にヤイロも習いなさいとの勧めです。たったさっき、目の前で起こった様に、イエス様により頼み、信じることによって、救いは実現するのです。

 

到着すると、イエスは三人の弟子だけを伴ってヤイロの家に入ります。そして。

『イエスは娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられた。』

こうして、ヤイロの一人娘は、息を吹き返すわけです。娘の両親は、非常に驚きました。信じた通りになったというレベルを通り越した「驚き」なのでしょう。その「驚いた」との原語エクシステーミ(ἐξίστημι)のニュアンスから言うと「心を完全喪失したような驚き」がそこにはあったのです。

 

ヤイロの娘が生き返ったからこそ、出血が止まらない女の癒しは人々から祝福を受ける出来事となりました。癒された後の彼女の人生を考えると、もしヤイロの娘が生き返らなかったら、人々から彼女のせいだとのそしりを受けたでしょう。逆に出血が止まらない女が癒されたことをヤイロが目撃していたからこそ、ヤイロはイエス様が勧められたように信じ、その結果娘が助かったのです。そして、この物語でのテーマは、命そのものの救いと、心の命の救いの2つです。どちらも大事ですから、どちらも癒されなければなりません。イエス様は、すぐに両方ともに対応されました。その始まりは、会堂長ヤイロが愛する一人娘のために、イエス様にひれ伏して癒しをお願いしたことです。そして、イエス様がヤイロの家に行くまでの間に、出血が止まらないで悩んでいる女の信仰の証がありました。そこでは、イエス様が出血が止まらない女に向けて『あなたの信仰があなたを救った。』と言われたその言葉を聞きました。そのあと、イエス様はヤイロに言います。『ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。』 このイエス様のお勧めによって、ヤイロは変えられたのです。愛する一人娘、愛する者のために祈ること。それは、ヤイロがイエス様に出会うきっかけとなりました。そして、『ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。』とのイエス様の言葉に。ヤイロはイエス様を信じました。そしてイエス様とヤイロの信仰によって、会堂長ヤイロの一人娘の命は救われたのです。このとき本当の意味で救われたのは、この会堂長のヤイロでした。すべては、イエス様の御心によるものです。こうして、イエス様は私たちを導いてくださいます。私たちは、イエス様を信じるからこそ、イエス様が私たちに寄り添って最善を備えてくださることを知っています。

ですから、『安心して行きなさい。』 イエス様は、そうおっしゃっています。そういってくださる、イエス様に信頼して従ってまいりましょう。