ルカ8:1-15

 種を蒔く人

 1.婦人たち

 新約聖書に出てくるイエス様の弟子と言える人は、次の通りです。マルタとマリアの姉妹はベタニヤに住んでいますから、この中で少なくとも7人がイエス様に随行していたと思われます。

イエスの母マリア(ルカ 1:27)マグダラのマリア(ルカ 8:2 マルコ 15:40)ベタニアのマリア( ルカ 10:38 ヨハネ 12:1)小ヤコブとヨセの母マリア(マタイ 27:55 マルコ 15:40 ルカ 24:10)クロパの妻マリア(ヨハネ 19:25)ベタニアのマルタ(ルカ 10:38)ヨハンナ(ヘロデの家令クーザの妻)(ルカ 8:3)スサンナ(ルカ8:3)サロメ (マルコ15:40 16:1)


 彼女たちの役割は、第一に弟子であること、そして、イエス様一行の経済を支えることです。12弟子のなかに、経済力がありそうなのは、徴税人マタイしか思いつきませんし、イエス様は最下層の人々に寄り添いましたから、お金持ちの支援はあまり考えられません。ですから、女性たちのなかには裕福な人がいますから、イエス様の助けになったと思われます。また、イエス様は女性が学ぶことをよしとしない風習に対して、女性が最前列に出て学ぶことも認めていました(べタニアのマリア)。さらに、マグダラのマリアは、イエス様の弟子で一番優秀だったと、伝承されています。




2.「種を蒔く人」のたとえ

 「聞く耳のある者は聞きなさい」この言葉は、イエス様が良く使います。「聞きなさい」とは、聞くだけではなく、よく理解しなさいとのニュアンスです。イエス様は群衆に向けてわかりやすいように「たとえ」を使いました。だけど、少しは考えないと、その意味するところは分かりません。

種:み言葉

種が落ちた場所:み言葉を伝えた様々な人々

 ・道端→み言葉を踏みつけて、受け入れる気がない人。悪魔(烏)がやってきて、み言葉を持っていか

  れてしまいます。聞く耳は持っていますが、理解しようとしていないのです。

 ・石地→喜んでみ言葉を聞きますが、少しの試練でくじけてしまう人。み言葉がしっかり根付かない様な

頑なな心を持っているので、み言葉が枯れてしまいます。聞く耳はあります。そして理解はしますが、

  その瞬間だけで終わります。全く続かないと言うことは、本気で受け入れていないからでありますし、

表面的な理解で終始しているからです。

 ・茨の中→み言葉を聞きますが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに

至らない人。み言葉が増えませんので、結果は道端と石地と変わりはありません。聞く耳を持っていて、

理解もして、み言葉を受け入れ続けますが、実がなるまでの忍耐を理解していないのです。

 ・良い土地→『立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人。』


 み言葉(種)が増えると言うことは、さらに種を蒔ける(伝道できる)と言うことです。もし、種をまいても実りが元の種よりも少なかったならば、時間と共にみ言葉は消えてしまいます。道端や石地や茨の中に種を蒔いても収穫がないのは確かですが、それでもイエス様はどの土地(人)にも、み言葉を届けようとしています。そこで、必要なことは、すべての土地を良い土地に変えることです。

 良い土地とは、どのような人なのでしょうか? イエス様は、実を結ぶ人が良い土地だと言いました。 「そのためにみ言葉を聞いて、守って忍耐しなさい」それから、「み言葉を聞くときに立派な良い心で聞きなさい」とも言いました。イエス様は「耳のある者は聞きなさい」と命令しているわけですが、この「聞きなさい」には、立派な良い心を持って聞く、そして理解することを意味しています。さらに「守って、忍耐する」こともその理解に加えなければなりません。


 弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねました。その時にイエス様の言葉の意味が分かりません。イエス様が引用したのはイザヤ書6:9ですが、『彼らが見ても見えず、/聞いても理解できない ようになるため』とは、「見えるように」 「理解できるように」 ではないところに違和感があります。さらに、イザヤは人々を頑なにするよう命令されています。

イザヤ『6:10 この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」』 


 バビロン捕囚の時、預言者イザヤはイスラエルの人々を頑なにするために、預言しました。ただ、それは全イスラエルおよび全世界に救いをもたらすために、人の罪深さを理解したうえで、悔い改めるよう、神様が計画されたことです。ここで、イエス様も、イザヤの時と同じように、ユダヤの民を頑なにするために「たとえ」を使いました。たぶん、ファリサイ派の人々や律法学者もそこに居たでしょうから、彼らは怒ったと思われます。道端に落ちた種を踏みつけるのは彼らであり、み言葉を悪用して「自儘な掟」を作り、それを民に教えるなど、それは悪魔の所業であります。しかし、彼らも耳を持っています。だから、イエス様はこう命令するのです。

「聞く耳のある者は聞きなさい」