ルカ20:1-8

 天からの権威

最高法院 神殿の一室にあった

新共同訳の解説から


◆祭司長(さいしちょう) 祭司の頭(かしら)。元来,祭司の最高の職位である大祭司はただ一人で,終身の世襲制であったが,イエスの時代には権力者の意志で,生きているうちに退位させられたこともある。新約で複数の祭司長(たち)とあるのは,このためであろう。つまり,現職の大祭司のほか,かつて大祭司の職にあった者を含む。他の説では,大祭司がその中から選ばれるおもだった祭司の家系に属する人々を指したというが,詳細は不明。


◆律法学者(りっぽうがくしゃ) 律法を専門に研究し,解釈して民衆に教える教師。優れた学者は多くの弟子を持ち,最高法院の議員など,社会的に尊敬される地位にあった。学者の多くはファリサイ派に属していたと思われる(マタ 23:1-7,なお,使 5:34参照)。しかしイエスの時代には,文字どおりの律法順守に拘泥するあまり,他の人に厳しい順守を要求したので(律法主義),愛の実践を優位におくイエスと真っ向から対立した。


◆長老(ちょうろう) イスラエルの部族制度の中で,家族,氏族,部族を代表し,それを取り仕切る任務を帯びていた(出 3:16,民 11:16)。一般に年輩者だったので,「長老」(「老人」の意)と呼ばれたが,年齢よりもむしろ高い身分を指している。後には王の顧問の術語となり(王上 12:6など。100回以上),マカバイ時代以後は,国の最高法院の議員の一部を指すようになった(マタ 21:23,26:3)。長老制は新約の教会にも取り入れられている(使 14:23,1テモ 5:17)。


1.最高法院の権威

 

 サドカイ派の祭司長と祭司長経験者たち、ファリサイ派の律法学者たち、長老たちが、イエス様に近づいてきました。この人たちは、最高法院の議員なのでしょう。最高法院は、宗教と政治の中心地です。ローマに支配されていますが、当時のユダは自治権を持ち、死刑以外の事は最高法院で決定することが出来ました。そもそも、国の政治とユダヤ教の権威を象徴するような歴々です。最高法院は、神殿の中にありましたから、イエス様が境内(おそらくソロモンの回廊)で教えていたなら、それに気づいて連れだって出てくることが可能です。


 基本的に、宗教的行事は祭司長たちに、聖書の教えは律法学者たち、そして政治は長老たちがそれぞれ権威を持っていて、死刑以外を決定することが出来ました。このように、この世の権威者たちがこぞって出てくると言うことは、イエス様を裁くことを視野に入れているのです。そもそも、最高法院はイエス様が神殿で教えることを許しているはずもありません。ですから、第一に「誰の許可を取ったか?」と聞くべきところですが、『何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」』とイエス様を追求しようとしています。はっきり言って、最初から敵対しているような状態です。イエス様に「神の権威によって、福音を告げ知らせている。その権威は、神から頂いた」と答えさせたかったのでしょう。そうしたら、最高法院はイエス様を「神を冒涜した」罪に問うことが出来るからです。しかし、その作られた罪は、私憤によるものです。「み言葉を語る権威は、最高法院の議員がもっていると」自負している彼らは、人々がイエス様の告げ知らせる福音に集まるところを見て、妬んだと言った方が良いかと思います。


2.ヨハネのバプテスマ

 イエス様は、お答えになりませんでした。その代わりに逆質問をします。イエス様は、いつもいつもお答えになるわけではありません。こんな場合は、大体イエス様は答えていないようです。1.本題からそれて単なる好奇心で聞いたこと。つまり無意味な霊的でない質問。2.悪意のある言動。


 今回の箇所は、明らかに最高法院側の悪意があります。こう言う時、イエス様が相手の悪意をうまく封じ込めるのです。『20:4 ヨハネのバプテスマは、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。』このように聞かれた最高法院の人々は、困りました。「ヨハネのバプテスマが天からのものである」と、もし言えば、「なぜあなたは、ヨハネの言ったメシアの証言を信じないのですか?」と言われるでしょう。しかし、「ヨハネのバプテスマが人からのものである」と言ってしまったら、そこにいる人々がひどく怒ることは目に見えています。彼らは、バプテスマのヨハネを信じているからです。こういうとき、賢い人は答えることを避けます。そして、「わからない」・・・

 そこには、人と人がお話をするときの礼儀があります。聞かれたことの答えを拒否しておいて、聞いたことの答えを要求することは、傲慢な態度です。この場合、何らかの誠意を見せない限り、双方が答えない決着となるはずです。そして、もう一つ 最高法院の人々の質問を同じように分析してみると、「あなたの告げる福音は、天からのものか、それとも、人からのものか?」 これに対してイエス様が天からのものと答えれば、最高法院の人々は怒るでしょう。また、人からのものと答えれば、「なぜ、あなたは私たちの教えを受けて、許可を取らないのですか?」と言われるでしょう。全く同じ構図で、最高法院の人々が答えられないならば、イエス様も答えられないのは確かです。しかし、実態は最高法院の人々は、思っていることを言うと人々が怒ることから、逃げたものであり、イエス様は、身分の高い低いは関係なく、対等に会話をしたわけです。もし、最高法院の人々が「ヨハネのバプテスマは人からのものである」と思っている通りに言ったならば、イエス様も「私の告げる福音は天からのものである」と答えたでしょう。これでは、収拾がつかなくなってしまいますから、そういう意味では最高法院の人々の判断は穏健であったわけです。

 天の国は、イエス様がユダヤの王となって再臨するときに来ます。今、エルサレムに上る場面で、「王になって帰って来るために一時出かける」ことを示唆したものです。その時にイエス様を受け入れずに拒否した人々は裁かれます。また、その留守の間私たちは、イエス様の意志に従って、働かなければいけません。すべての人がイエス様を信じるようにと伝道することが必要なのです。そして、イエス様が帰ってくるまでに成果を上げた人々は、イエス様が再臨したときに、より大事な役割を与えられるのです。