エフェソ5:21-6:4

 家族に仕える

2022年 8月 21日 主日礼拝    

家族に仕える

聖書 エフェソの信徒への手紙5:21-64 

 「家族に仕える」


 おはようございます。今日の聖書は、ローマの獄中からパウロが書いたと言われている、エフェソの信徒への手紙からです。特に今日の聖書個所には、「自分の夫に仕えなさい」とか「父と母を敬いなさい」とあります。そのままに受け取りますと、古い考えで今どきは反発されるような言葉です。そもそも、教会という公の場所に、家族に対する個人的なお勧めをするということは、普通はありえません。ですから、パウロが立ち上げたエフェソの教会に課題があって、パウロの考えを信徒に伝えたかったと考えてよいでしょう。宛先は、夫であり、妻であり、子供であり、親です。

その課題は妻たちや、子供たちにあったのでしょうか?文面を見ると、

『5:22妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。』、それから、

『6:1 子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。~』とありますから、妻たちも子供たちも自立してしまって、夫や親の言うことを聞かなくなってしまったのでしょうか? エフェソの教会全体への手紙の中で、そのような個人の家庭のことを書くわけはありませんので、おそらく、一般論としての信仰に基づいた「家族への姿勢」を教えているのだと思われます。決して、キリスト教が平等を教えたために、妻が夫の言うことをあまり聞かなくなったとか、子供が親を無視するようになったということではないと言えます。


 パウロはガラテヤの信徒への手紙で、このように教えていました。

ガラテヤ『3:26 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。3:27 バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。3:28 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。』

 パウロは、エフェソの教会で牧会をしていましたので、この教えはエフェソの教会で理解されていたと思われます。パウロは、「全ての人がイエス様の下に平等である」と教えていましたから、礼拝するときには、ユダヤ人もギリシア人も一所でした。奴隷も主人や他の自由人と一所に礼拝を守れました。また男女も同じシナゴーグで礼拝を守ったのです。少し、余談になりますが、シナゴーグは、その町の一番高いところにあって、そして水が引ける場所にありました。東側に中庭があり、そこに清めのための水があるわけです。建物は二階建てで、二階は婦人用の礼拝場所だったようです。シナゴーグには男女の区別があるだけで、人種や自由人かどうかの区別はなく、礼拝を守ることができました。そして、聖書を学び、宣教を聞き、そして食事をしたわけです。当時は、本当にシナゴーグの礼拝で食事をとっていました。そこには、上下関係も差別もないのです。しかし、それは理想論にすぎません。多くのユダヤ人は、ギリシア人とは付き合いませんでした。また、奴隷とその主人は教会の中では平等に扱われましたが、教会の中だけのことです。また、妻たちは教会の中で「キリスト・イエスにおいて男も女もありません」との教えを聞いています。しかし、当時の社会では、妻や子供は主人に従属するものとして考えられていて、とても平等とは言えません。パウロが教えた平等は、理想にすぎないのでしょうか?それとも、エフェソの信徒の理解や信仰が足りないから、「教会の中だけのこと」と割り切っていたのでしょうか?パウロは、教会の外でこそ、キリスト・イエスにおいて平等であるように、お勧めしたかったのだと思われます。

 ですから、パウロはこの手紙を書き、人と人の関係はどうあるべきか、特に家族はどうあるべきかを述べたのです。

 ここでは、夫と妻、父と子、主人と奴隷の関係が記されています。具体的には「妻は夫に仕えなさい」、「子供は親に従いなさい」、「奴隷は主人に従いなさい」と書かれています。ここだけを見ると、パウロが「長い物には巻かれろ」と言った、弱者が強い者に従属することを推奨しているように聞こえますが、そうではありません。平等を歌う現代社会は、キリスト教徒が個人の自由・平等・博愛の理想を求めた所から始まりました。ですから、パウロは封建的な家長制度を見直す、先駆けだったのです。「仕えなさい」とパウロの言う理由は、次の通りです。

『5:23 キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。5:24 また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。』

 少し、この言葉を分析してみましょう。キリストが教会の頭であり、教会を形成する一人一人はその教会の一部であるように、夫は家族の頭であり、妻や子供はその家族の一部です。そして、教会の一人一人が教会の頭であるキリストに仕えるように、家族の一人一人が家族の頭に仕えなさいと言っています。ここまでを見ると、パウロは全く新しいことは、言っていません。「教会の頭であるキリストに仕えるように夫に仕えなさい」と、むしろ最上級の仕え方を要求しています。つまり、古来からの伝統による「夫に仕える」仕え方ではなく、イエス様に仕えるように「仕えなさい」とパウロは教えているのです。そして、パウロの言葉は、夫にも向けられます。

『5:25 夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。』

この文章には、キリストが教会を愛する「愛」と夫が妻を愛する「愛」があります。どちらも無条件の愛(アガペー:αγάπη)で愛する(アガパオー:ἀγαπάω)との意味の「愛」です。この愛は、人間の愛ではありません。キリストの愛であります。夫に対して、妻を自分の存在の一部として、「愛しなさい」と勧めているのです。また、キリストの愛で「愛しなさい」と言っているのですから、それは一方的な愛であり、無条件な愛であり、また無限の愛であります。ですから、家族愛(ストルゲー:στοργή )や、友達への愛(フィリア: φιλíα)とは次元が異なります。夫は「妻が従属するから」愛するのではありません。妻が夫に仕えていても、仕えていなくても、「夫は妻を愛しなさい」とパウロは勧めているのです。しかも、パウロは、その愛が「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身を犠牲にされたように」、「愛しなさい」と言われています。キリストであるイエス様は、教会のために、そして私たちの罪を贖うために一度死にました。同じように「夫は妻のために命をかけて愛しなさい」とパウロは教えているのです。そして「妻は、夫に信仰をかけて仕えなさい」と・・・。これはまさに、イエス様を信じる信仰によって仕え合うことであります。パウロは言います。

これは、今日の聖書の、冒頭に書かれている通りです。

『5:21キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい』。


 パウロは続けます『5:30私たちは、キリストの体の一部なのです。それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。5:32この神秘は偉大です。私は、キリストと教会について述べているのです』。

 今の日本のほとんどの結婚では、男女がそれぞれふさわしいと思う相手を選び、家族となります。結婚した後、互いに結婚を維持することが良くないと思えば離婚して、やり直すことができます。ところが、聖書はそれを認めていません。(創世記2:24,マタイ19:6,マルコ10:7,8) 例えば、カトリックでは7つの秘跡(サクラメント)と呼ばれる最も大事な礼典の一つとして、結婚が位置付けられています。(バプテスト教会では礼典は、バプテスマと主の晩餐式のことです) ですから、夫と妻が離婚することは、家族であった者たちが家族でなくなるだけでなく、自分の信仰をも否定することなのです。クリスチャンの夫婦であったとしても、罪を犯したり、相手を裏切ったりする弱さを持っています。それでも、共に生活をしていくためには、信仰が必要であります。このような信仰に立った結婚観に基づいて、「妻は夫に仕え、夫は妻を愛しなさい」とパウロは教えます。イエス様が私たちのために仕えて下さり、十字架の上で私たちの罪を贖ってくださった、この無条件の愛と同じように、私たちは互いに仕え合う、関係が必要なのです。


 同じように、この時代は、子供が親に従うことは当然でした。しかし、同時に父に対して、パウロは「子供を怒らせてはなりません」と諭しています。当時の子供たちも妻同様に、法律上でさえも何の権利もありませんでした。その子供たちの人格を尊重するようにとパウロは勧めるのです。しかも「主がしつけ諭されるように育てなさい」と。子供が親の言葉を理解して従うこと。そのためには、親が子供の人格に敬意を払いながら諭すことが、信仰者としてあるべき姿であると、言っています。これらは、教会の中だけの事ではなく、常に平等であり、仕えあうべきとのパウロの教えだといえます。教会の外であっても、仕えあうという教えは、エフェソの信徒にとっては新しく、認識を改めさせられたのです。私たちは、家族を愛し、そしてそれぞれの人格を尊重して、仕えあうことに挑戦しなければなりません。そのパウロたち伝道者が教え、また実践してきた成果として、私たちは平等な社会という財産を頂いているのです。


 一方で、子供たちや妻には新しい教えはあったのでしょうか?結局パウロは、子供たちや妻に従属を勧めているように見えます。今までと何も変わっていません。もちろん、子供は親なしでは生きることは困難ですし、経済的に自立していない妻は、夫によって生計を立てるしかありません。しかしながら、「その状況なのだから、受け入れなさい」と、パウロはお勧めしたわけではありません。信仰によって、新しい生き方を選び取るようにパウロは、勧めているのです。イエス様に仕えるのと同じように仕え合うことによって、「信仰に基づいたクリスチャン家庭を築いてください」とパウロは教えたのです。

 ここで、「仕え合う」という言葉ですが、具体的に何をすれば良いのでしょうか? たぶん、一人で考えても何もわかりません。相手のやってほしいことや、やってほしくない事を聞くことが必要です。それぞれが、うれしいと思うことや、いやだと思うことには違いがありますし、その思いの強さも人によって違います。そして、私たちには本当の相手の気持ちもわからないので、独りよがりに「仕え」てしまうのだと思います。それでは、良い結果は生まれません。やはり、人間にとって「仕え合う」のは、難しいです。ですから、イエス様に祈って、ゆだねた方がよいと思われます。そうすれば、よい道が開けていくでしょう。人間の知恵に頼ったところで、うまくいかないからです。例えば、良いことが起こるように、と知恵を絞ったら、悪いことばかり起こるものです。逆に悪いことは起こらないように手を打っていると、良いことも起こらないわけです。このように「自分の思い」が強ければ強いほど、また、自分を愛するほど、自分の知恵は偏ってくるので、良いようには働かないのだと思います。やはり、イエス様に祈っていくのが正しいのです。イエス様のように「人を愛することができるように」、イエス様にお願いしましょう。そして、互いに「仕え合う」ためには、互いに祈りあうことが必要でしょう。祈りあえる機会がなければ、まず一人で祈るところから始めればよいのです。そこから初めれば、イエス様は、必ず「仕え合う」ことを実現させてくださるのです。