ルカ13:1-9

悔い改め

2021年 822日 主日礼拝     

 「悔い改め

聖書 ルカ13:1-9

実のならない「いちじく」の話は、マタイとマルコにもありまして、「強い信仰をもって、祈るならば、何でもそのとおりになる」と言った記事です。今日の聖書の箇所では、同じ実のならないいちじくの木を題材にしていますが、「悔い改めなければ滅びる」ことの教えになっています。そしてこの記事は、ルカによる福音書にしかない内容です。

当時のユダヤでは、いちじくは一般的な食材でした。そのためいちじくは、7つの伝統的な食材(「小麦(Wheat)」「オオムギ(Barley)」「ブドウ(Grape)」「イチジク(Fig)」「ザクロ(Pomegranates)」「オリーブ(Olive)」「ヤシの実(Date)」です。)に数えられていました。そして、聖書にも良く出てきます。(注:ザクロは旧約のみ出てきます。ヤシは、聖書に出てきませんが、「生命の木」とはナツメヤシがモデルになっていると、言われています。)特にイエス様は、譬えでわかりやすいように教えられましたから、日常の食べ物もよく取り扱いました。今日の聖書の1節から5節の悔い改めの話が解りにくかったので、イエス様は実のならない「いちじく」の木の譬えで補足されました。

 

まず、ピラトの起こした出来事についてです。フラウィウス・ヨセフスという、ユダヤの司令官がいましたが、彼が後に歴史家として書いた「ユダヤ古代誌」には、このピラトの起こした出来事は書かれていません。もう少し、時代がたってからガリラヤのユダという人が率いる、第四の哲学グループがローマに反抗したという記事はあります。それは、使徒言行録にも記載があります。

使徒『5:37 その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。』

このことを指しているとは思われます。イエス様が地上で伝道されていたころから、ガリラヤの人が犠牲になるようなローマとの争いごとはたびたび起こっていました。つまり、『ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえ に混ぜた』というのは、ガリラヤの人を血祭りに挙げたという意味に使われていると解釈できます。決して、エルサレムの神殿に捧げる燔祭にガリラヤ人の血をかけて汚したわけではないのです。なぜかと言いますと、ローマ兵等の外国人は神殿の美しの門の内側には入れないからです。それにしても、ローマとの間で何が起きていたのでしょうか。この出来事は、直接的にはガリラヤのユダによる反乱でしかありません。このグループは、ユダヤ第四の哲学グループです。しかし、このユダの率いる学者グループは、ファリサイ派、サドカイ派やエッセネ派とは異なり、「ローマ皇帝を主と呼ぶ人は、身内でも殺す」というような、過激なグループでした。

このグループは、ゼロテ党(熱心党)やシカリ派とは別のグループです。このユダのグループが活動していた事情を知ると、ガリラヤから犠牲になった者が出た事を知った人々の反応が予想できると思います。一言で言ってみれば、自身の主義主張と無謀な計画のために、自爆したようなものです。自業自得だと皆が思っているだろうという事です。しかし、イエス様は、「誰であっても、悔い改めなければ同じようなことが起こる」と教えます。この教えの意味は、ここまでの記事では読み取れませんので、先にシロアムの塔の話に移します。

ガリラヤの人が自業自得で、命を落としたと思うのであればという事で、イエス様はシロアムの塔が崩れて、18人が死んだ事故のことを話します。シロアムの塔の出来事を歴史的に裏付ける記録は特にないようですが、シロアムの池は時代と共に手が加えられ、場所も変わっているそうです。シロアムの池は、紀元前700年ころに、エルサレム唯一の水源であるギホンの泉から水をくみ上げるために、ヒゼキア王が地下水路を引いた記事が聖書に書かれています。(歴代誌下32:30)シロアムの塔は、シロアムの池から水をくみ上げ作業用に作った塔だと思われます。この塔が、ある日突然崩れてきた原因について、イエス様は尋ねます。先ほどのガリラヤの血のことが自業自得だったならば、シロアムの塔で死んだ18人ともが日ごろの行いが悪かったと言えるのでしょうか?そしてこの18人はエルサレム中の人々と比べ、きわめて罪深い人たちだったのでしょうか? そして、当然の報いなのでしょうか?・・・イエス様は、「そんなはずはない」と考えているのです。そして、イエス様は付け加えられます。

『13:5 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」』

イエス様は、何を言われているのでしょう。良くわからないですね。それでも、罪深いから事故に会ったということが、否定された事は確かです。

 

シロアムの塔の重要度を考えてみれば、エルサレムのような城塞都市ですから、敵から身を守るためには、高い城壁と、高度な武器類、そして水食糧です。水がないと生きていけませんから、エルサレム唯一の水源から引いた池に建てる建物は、頑丈に作ったはずですし、手入れも欠かさずやっているはずです。ですから、事故とか経年劣化が原因ということはあまり考えられないでしょう。

それが、ヨセフスの書いた古代誌によると、このシロアムの塔が倒れたのは、ピラトが関係しています。ピラトは神殿の金(きん)を使ってこの塔を補修していたのです。(古代誌18-60)このことを知ったユダヤの民は、ローマに反発して騒ぎ立てました。結局ローマの軍隊が出動して制圧されました。その時に、工事をしていた18人がその塔が倒れることによって、犠牲になったのでした。そういう意味で、ガリラヤのユダと同じように、その18人はピラトに味方をしたのだから、自業自得と言われていたのだと思われます。

 

しかし、イエス様は、そのようには解き明かしませんでした。その代わりに「いちじくの木」の譬えをお話されました。実のならないいちじくのたとえは、結局、木は切られなかったところに注目すると、実を実らせないいちじくの木への裁きは、罪のある人への裁きをたとえていることに気がつきます。罪を悔い改めないのであれば、滅びがやって来る。イエス様は、もう一度念を押して教えていたのです。

 

ここで、イエス様の譬え話、「実のならないいちじくの木」を良く見て行きましょう。3年間実がならないので、木を切るように主人は言いますが、園丁は肥料をやって来年実がなるのを待ちましょうと提案します。この当時の農園の主人と園丁の関係は、主人の力が絶大でした。しかし、こうして園丁はなんとか助かるように提案しました。なぜなら、本来実がならないのは、園丁自身の作業が良くなかったのか、もしくは、いちじくの木の方に問題があるからです。決して、その場所にいちじくを植えるよう指示した主人が悪いわけではありません。それを、園丁は素直に認めて、改善を約束したのです。作業の問題だったら、よく手入れをすれば1年後の実がなるだろうし、それでもだめだったら、木の方が悪いと思われるからです。

ところで、主人とは農園の持ち主の領主のことです。だいたい、当時の領主はいくつも農園を持っていて、普段は大きな町で生活をしています。領主は、一人で農園を見回ることには限界がありますから代わりに管理人を農園に住まわせています。ですから、各農園は一人が見て回れる広さ、そして朝夕荷物を運んで通うことが出来る距離でなければ、耕すことも収穫することも困難です。管理人の下には小作人や使用人が100人くらいいました。小作人は、収穫の約1/3を主人に。収穫の1/3を王様(又はそれに準ずる支配者)に支払います。そういう収入の面から言うと園丁のこの提案は、園丁の利益でもあり、主人の利益でもあります。こうして、実のならないいちじくの木は、裁かれずに難を逃れるのでした。言うまでもなく、農園の主人は神様をさし、園丁は福音を延べ伝える者、そしていちじくの木は、私たちそのものです。主人の期待である実をつけないままでは、切り倒されるところだったのですが、園丁のことばがあって1年間猶予されました。それでもだめだったら、実がならなかったら園丁は「この木を切り倒してください」と断言します。これは、園丁による執り成しです。いちじくの木の努力に責任を負わせたのではなく、かならず、私が実をならせて見せますという意図で言ったのです。このような言葉を言えるのは、イエス様だからでしょう。私たちに実がならなくても、そのことを責めずに、一方的に許してくださったのですから。そして、さらに1年後に実がなる恵みを受けられることまでも約束してくださいました。イエス様のこの譬えは、「私たちに信仰の実がならない」ことは、裁かれない。そして、「イエス様の執り成しに、答えようとするならば、イエス様が全てのことを備えてくださる」という事だと思います。そもそも、私たちには、信仰の実をならせること、その力は持っていないのです。

イエス様の働きかけがあるからこそ、私たちは、それをそのまま受けいれます。そうすることで、イエス様の言う様に「実のならないいちじくの木にも、1年後には実がなる」のです。

さて、私たちキリスト教では、行いによって救われるとか、報われるとかいう考えは持っていません。しかし、このころのイエス様の周辺にいる人々は、自業自得というか、悪い行いによって裁かれるとの考えを持っていたようです。しかし、悪は裁かれるべきだという願望を持つのは理解できますが、決してその通りにならないのが世の中でもあります。そして、私たちは誰もが罪を犯してしまいます。罪の大きさの差はあるかもしれませんが、私たちはいつも裁かれる対象でしかないのです。それから大事なのは、私たちは決して裁く側にいるわけでもありません。そうであるにもかかわらず、悪人は裁かれるべきだと思ってしまうところが、罪深いのかもしれません。かく言う私自身も悪人に含まれるので、本来ならば「悪人が裁かれてよい」となど、上から目線で言えないのです。また、悪人が本当に裁かれるべきならば、私たちは、災害や事故そして疫病のたびに、次は自分か?と覚悟しなければならなくなります。不条理な出来事は、人生の何処でも起こり得ますが、それは決して私たちが悪を働いたがための報いではない。イエス様は、そうおっしゃっています。それでも、一つだけ条件をイエス様は言われました。悔い改めることです。本当に、それだけです。「悪を止めなさい」とは、イエス様は言われませんでした。神様は、私たちが悪をすることは重々ご存じなのです。それでも悪をする私たちを滅ぼすお考えはないからです。

さて、それでは何を悔い改めたらよいのでしょうか? キリスト教の悔い改めは、「罪を悔いて、神様に赦しを願う事」です。そして、この意味には行いを改めることは含まれません。それは、使徒言行録にあるパウロ自身の証の中でもこのように語られています。

使徒『26:20 ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと伝えました。』

 確かにパウロは行いのことにも触れていますが、悔い改めた結果の二次産物としてでした。神様から一時離れていたことを悔いて、神様に赦していただくことが先にあるからです。そして神様にどうしたらよいかを祈りながら聞くのです。私たちは、もともと行いを選ぶ判断は得意ではないし、いつも間違い得るのです。だから、わたしたちには神様の導きが必要なのです。そして、その祈りの中に平安があります。私たちは必ずイエス様の執り成しで許してもらえるのですから。

イエス様に祈って、赦してもらう。それは、いま私たちが抱えている罪から解放されることです。イエス様に感謝して、赦してもらえるよう祈ってまいりましょう。