1.逆らわないのは味方
『9:38 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」』
「わたしたち」という言葉が、また出て来ます。自分たちの権威を誇り、そして振りかざしている態度です。「わたしたちに従う」のが正統派で、他はみな偽物であるとでも主張しているようです。ですから、このヨハネの言葉は、神の国を求めているのではなくて、自分の権威を求めているものだと言えます。
『9:39 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。9:40 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。』
わたしたちに反対しない者は、みな味方である。かなり寛容な態度だと言えます。自分の名前を使っているからと言って、それはイエス様の教えや行動を否定しているわけではない。むしろ、イエス様の教えを手伝っている。そう考えると、味方だと言えるのでしょう。
『9:41 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」』
ヨハネは、わたしたちに従うかどうか?で 味方であるかどうかを判断していました。味方になることは、わたしたちに従う人であることを必要とはしません。お互いに、認め合い、協力し合うならば、それが味方だからです。一方で、イエス様は、キリストの弟子として、「悪霊を追い出している者」は、報いられるべきだと教えました。たしかに、この者はヨハネには従わなかったでしょう。しかし、イエス様の見よう見まねで、悪霊を追い出す という、イエス様の宣教活動の一端を担おうと行動をとっていたわけです。それは、どんなに小さい働きであれ、キリストの弟子に対して、何かをしてくれようとしているならば、明らかに味方であって、そしてその働きは必ず報いられなければならないのです。
2.罪への誘惑
『9:42 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。』
イエス様は、 私たちがつまずくことよりも、人につまずかせることに警鐘を鳴らします。そんなことをしてしまうくらいなら、殺されてしまったほうがましだと言うわけです。
『9:43 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。†9:45 もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。†9:47 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。』
先ほど、「海に投げ込まれたほうがまし」とイエス様は言いました。人をつまずかせる行為は、万死に値するのです。同じように、片手がつまづかせるなら、自らその片手を切りなさい。そのほうがましだと教えるわけです。両手がそろっていても地獄に落ちるなら、片手を切り落として天国に迎えられる方がましなのです。そして、足、目も同じです。2つそろって地獄に落ちるよりも、つまずかせるものは、切り取って、地獄に落ちることを防がなければなりません。
『9:48 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。』
この言葉は、恐ろしいですね。地獄に落ちると、蛆と火が 永遠に私たちをむしばんでいくのです。そうであれば、片手や片足、片目を失っても、地獄に落ちないほうがましなのです。
『9:49 人は皆、火で塩味を付けられる。』
旧約聖書の時代、焼き尽くす献げ物としていけにえにされる動物は、塩につけられました。当時は、長期保存の手段は、塩に漬けるくらいしかなかったのです。塩は肉が腐るのを防ぎます。つまり、清めの働きがあります。また、火は汚れを焼き尽くす働きをします。ですから、人が清められるには、火と塩が必要となるわけです。
『9:50 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」』
これは、イエス様が山上の説教で教えたことばと同じです。あなた自身が、さらに腐敗するのを防ぎなさい、とイエス様は命じています。そのためには、まず、自分自身に注意することです。自分自身に塩けがあるか、それを確かめることが必要です。あなた自身が塩味がしなければ、そもそも片っ端から腐っていくのです。
最後に、イエス様は、「互いに平和に過ごしなさい。」と言いました。
この箇所の前で、弟子たちは「誰が一番偉いか?」で論争をしていました。自分に塩味を効かせて、自身が腐敗するのを防ぐ。それは手段であります。そしてその、塩を手段として用いる目的は、「互いに平和に過ごしなさい」でした。 私たちは、神の国についてこのように学んできました。神の国は、神様の栄光、イエス・キリストの栄光で満ちています。一方で、私たちは自分の支配する国を作ろうとします。そこでイエス様は、互いに仕えあうこと、罪を切り捨てることを教えました。私たちがその教えを受け入れることによって、祈る、仕えることができます。そして、そこに神の国が到来するのです。