1.子と親
出『20:12 あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。』
子どもたちに何を行うべきかを教えるときに、パウロはモーセの十戒の第五戒を引用します。神様はイスラエルの民に、「主が与えられる土地に長く生きることができる。」と約束しました。しかし、この部分は省略されて、「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」と置き換えられています。つまり、もともとイスラエルへのメッセージである「約束の地のカナンでの永住」を言ったところで、異邦人には関係がないことでありますから、異邦人には異邦人への約束が伴う必要があります。これをパウロは、小アジアの異邦人にも放牧民であるヘブライ人にも等しく適用できる形で提示しました。
元々この第五戒は、小さい子どもが言いつけを聞くように教えたものではなく、成人した子が年老いた親の面倒を見るよう勧告したものです。しかし、この手紙では、親元で育てられている子どもに生活態度を教えているのは明らかです。
『6:4 父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。』
父親は子供を怒らせないように諭さねばならない、という教えは今日でも有益です。この教えは、きわめて具体的な教育の実践だと思われます。キリスト信仰者は自分の子供に「ご無体な」言動を取ってはいけないのです。ところが、異邦人の中には実際に子供らに、威圧的な言動で接する者たちもいたのでしょう。家庭での子育てにおいて父親の義務は、まず何よりも、子供たちが心身ともに健康に生活できるように保護することであり、しつけとか教育とかの親の願望は、その十分な保護の下にあるべきなのです。「あなたの親が主の御心に従ってあなたを育てたように、主の御心に従って子供をしつけ諭しなさい」というのがこの教えです。
2.奴隷と主人
現代の私たちの社会には名目上の「奴隷制」は、ありません。しかし、現代社会であっても、差別的な態度や、弱者に対する搾取や虐げは、無くなっていません。強い者から見ると、弱者の気持ちはわからないことから、この奴隷と主人の教えは、過去の問題では決してなく、私たちが気を付けなければならないことであります。
ローマの法律によれば、奴隷は一家の主人の法的な権力の下にありました。すなわち、単なる個人的な持ち物ですから、奴隷がどのような扱いを受けようとも、外部の人間は誰も何も口出しできません。主人が「正しい」ということで、奴隷は無理な命令や、期待に対応できないと、厳しすぎる処罰を受けることもありました。しかし、当時の主人の大多数はそんな主人としての強権を行使することはないわけです。ただ、当時の慣習に従って奴隷に接したとしても、農奴、家の使用人、鉱山奴隷、ガレー船の漕ぎ手、戦奴の職種によって、命を軽く扱われたり、精神的苦痛を受けたりする程度は、大きく異なります。また、もちろん平和で問題が起きないような奴隷の生活もありました。これらすべてのことは、主人がどのような人物であるかと、その勤める内容によって決まりました。
新約聖書では、キリスト信仰者の奴隷への教えが出てきますが、制度としての「奴隷制」自体は一度も疑問視も否定もされていません。その一方で、「テモテへの第一の手紙」1章10節によれば、人買い商人は「誘拐する者」として、公然と罪の生活を送る者とみなされています。そして、奴隷制が神様の設定された制度であるとは、言われていません。ともあれ、この手紙は、聖書に奴隷制度に新しい意味を付与しているのは確かです。神様の前では、奴隷も自由人であり、自由人も奴隷なのです。人間の価値は、その人の身分、見かけや行いに基づいて決まるのではなく、神様によって用いられることで決まります。この箇所で強調しているのは、人々が集う教会では「自由人か奴隷か」という身分の違いは意味をなさないという点です。
「恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。」、という教えが奴隷に与えられています。日常の仕事に勤しむ者は神様に仕えているのです。同様に、主人たちにも教えが与えられています。主人たちの上にも主人がいます。それは神様です。人を差別しない神様は、彼ら主人たちも(最後の裁きの場で)裁きます。奴隷と自由人は、同じ神様が平等に裁くのです。
幸いなことに制度としての「奴隷制」の時代は過ぎ去りました。にもかかわらず、この箇所は現代の私たちの生活にも適用できます。主人と奴隷に関わる指示は、雇用者と労働者の関係に適用されるのは当然として、その他にも私たちに大切な事を教えています。それは「日常の仕事とは神様への奉仕である」ということです。人に仕えることは、神様に仕えることです。そして、人を使うことも神様に仕えることであり、また人との関係性も神様に仕えながら、保たれるべきものなのです。