エゼキエル37:15-28

わたしは彼らの神になる

2023年 9  10日 主日礼拝 

わつぃは彼らの神になる

聖書 エゼキエル37:15-28       

 エゼキエル書は、『イザヤ書』、『エレミヤ書』とならぶ三大預言書と呼ばれています。預言者エゼキエルが活躍しだしたのは、ユダの国がバビロンに捕囚された紀元前597年あたりとなります。エレミヤ書がエルサレムの滅亡前に送られた神様の言葉であるのに対し、エゼキエル書は バビロン捕囚の民に送られた神様の言葉です。エゼキエルは、捕囚となった民、国を失って失望していた民に神様の言葉を伝えました。今日の記事の前にある37章前半では、イスラエルのバビロン捕囚からの帰還を、死者の復活の奇跡として預言しています。その帰還後の預言が今日の15-28節です。王国時代に分断された二つの王国(ユダとイスラエル)を再統合して回復することを預言します。そもそも、イスラエルはヤコブから始まりました。イスラエルには、ヤコブの子供たちとヨセフの子供たちによる12の部族で構成されます。

ルベン、シメオン、ユダ、イッサカル、ゼブルンがレアの子、ベンジャミンがラケルの子、ダン、ガド、アッシャーがレアの召し使いの子、ナフタリがラケルの召し使いの子、エフライム、マナセがヨセフの子です。もう一人レアの子にはレビがいますが、この一族は祭司ですので、12部族には数えられません。


 今日の箇所で、エゼキエルは二本の木を取り、一方には、「ユダおよびイスラエルの子らのために」と書かれ、もう一方には、「エフライムの木であるヨセフおよびそれと結ばれた全家のために」と書かれています。そして、神様は、そのように書き記された二つの木を預言者の手に一本の木のように持って、その手の中で一本の木とするよう命じました。また、その様になると約束しております。ユダとイスラエルは、もともと一つの国でしたが、南北に分かれました。南がユダ族の血筋、北がヨセフの子エフライムの血筋です。

『37:21 そこで、彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはイスラエルの子らを、彼らが行っていた国々の中から取り、周囲から集め、彼らの土地に連れて行く。』

この預言が示す意味は、すでにバビロン捕囚で、連れ去られているユダの民をもとの嗣業の地に戻すだけではなく、全部族をもともとの国にもどすとの神様の決意であります。エフライムの木とはエフライム族、マナセ族を指しますからイスラエル北王国のこととなります。(北王国は、ユダ以外の部族で構成)また、ユダの木とは、ユダ族を指しますから、ユダ王国のこととなります。ですから、2つに分断し、そして無くなってしまった2つの国を復活させて、統一するという神様の約束であります。

『37:22 わたしはわたしの地、イスラエルの山々で彼らを一つの国とする。一人の王が彼らすべての王となる。彼らは二度と二つの国となることなく、二度と二つの王国に分かれることはない。』

 これは、国を失って世界に散らされたイスラエルのすべての人々が、帰還した後に起こる事を預言したものです。神様は、イスラエルの人々を再び嗣業の地に戻すだけではなく、もう分裂するようなことが無いように、一つの民とし、一人の王の下にイスラエルを治めさせると宣言しています。この預言は、これまでだれも語っていないものでした。これまでエゼキエルが預言してきたことも、バビロンに捕囚されたユダの回復だからです。なぜならば、そのエゼキエルの預言は、南王国ユダと北王国イスラエルを区別していなくて、単にイスラエルの回復が示されています。ですから、先に滅んでしまった北王国イスラエルの回復とは読めません。それが、です。今日の箇所になって、エゼキエルは北王国の回復、そして北王国と南王国が一つとなると、明確な預言をしているわけです。神様のご計画は、イスラエル全てを回復させて、そして全てのイスラエルの民を救う所にあったわけです。

 新しいイスラエルについて、23節以下に神様の約束が語られています。約束の第一は、

『37:23 彼らは二度と彼らの偶像や憎むべきもの、もろもろの背きによって汚されることはない。わたしは、彼らが過ちを犯したすべての背信から彼らを救い清める。そして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。』

 この預言は、アブラハムに神様が語り掛けた言葉ににています。

創世記『17:8 わたしは、あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。わたしは彼らの神となる。」』

 イスラエルの民は、偶像礼拝をして神様に背き続けた結果、神様は国を取り上げ、そして民を散らしました。それなのにです。神様は、再びイスラエルの人々の神となって、国を回復し、人々を過ちから救おうとされるのです。「イスラエルの民の背信は、神様自らが救い清める。」との宣言ですから、背いた民を裁いて滅ぼすのではなく、神様ご自身が救いの手を差し伸べ、そして清い民に変えるというわけです。・・・ また、裏切られるのでは?と神様は考えないのでしょうか? たいへん、辛抱強い神様です。もし、私が同じ目に合うならば、おそらく「背いた人が悪い」ということで、自業自得と思ってしまいますし、その背きを正すことなどは考えないでしょう。神様は、ユダの国を一時滅ぼしました。しかし、アブラハムとの約束を守り、そしてご自身が率先して、人々を救い清める と約束したのです。

そして第二の約束はこれです。

『37:24 わたしの僕ダビデは彼らの王となり、一人の牧者が彼らすべての牧者となる。彼らはわたしの裁きに従って歩み、わたしの掟を守り行う。37:25 彼らはわたしがわが僕ヤコブに与えた土地に住む。そこはお前たちの先祖が住んだ土地である。彼らも、その子らも、孫たちも、皆、永遠に至るまでそこに住む。そして、わが僕ダビデが永遠に彼らの支配者となる。』

 第二のダビデ、つまりダビデの子孫であるイエス様が現れるとの預言です。第二のダビデは、イスラエルの王様となって、イスラエルを神様の裁きに従わせ、神様の掟を守らせるとの預言です。確かに、ダビデは神様にまっすぐに向き合っていました。しかし、その子ソロモンは、偶像礼拝を許します。ダビデのイスラエル王国は、二代目から神様に従わなくなってしまったのです。それなのに、神様は、「わが僕ダビデが永遠に彼らの支配者となる」と宣言します。これは、その第二のダビデであるイエス様が永遠に生き、そして全イスラエルを支配するという宣言です。救い主がやってくる。そして、救い主とはだれか? それは、神様ご自身の事であります。

イザヤ『43:11 わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はない。』

と、神様ご自身が語っているからです。


 エゼキエル書をみると、当時の神殿の様子が書かれています。本来、神殿は礼拝を捧げる場所であり、神様と出会う場所なのですが、エゼキエルの時代には目を覆いたくなるような状態でした。数々の異国の偶像が置かれ、そして礼拝が行われていました。太陽礼拝もしていたようです。これは、神様への冒涜であります。偶像礼拝をして、戒めを守らなかっただけでなく、神様の尊厳をも踏みにじっているわけです。それなのに、神様はイスラエルの民を救おうとされるのです。ありがたいことです。

 イスラエルの民はこの神様の救いを受け入れるべきあります。とても救いに与るのに相応しくないイスラエルの民ですが、神様はそれでも救おうとされています。神様はその民を救い、清めることも、民の責任ではなくご自身の責任だと考えています。そもそも必要な事は、他の神々の支配されていたイスラエルの民が神様に立ち返り、神様に従うことなのにです。ところで、 最近の話題ですが、不祥事を起こした組織のトップが「私は知りませんでした」と堂々と、人のせいにして、具体的で効果のある改善策を約束しない記者会見を3度も見せられました。大変残念なことですが、自分を守ることに精いっぱいで、下の者を守る義務を忘れているようです。その点から見ると、神様は背き続けているイスラエルの民に対して、自分の事、自分の問題として考えています。もちろん、イスラエルの民以外の事も、神様は自分の事として考えてくださいますから、ありがたいです。


『37:26 わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。それは彼らとの永遠の契約となる。わたしは彼らの住居を定め、彼らを増し加える。わたしはまた、永遠に彼らの真ん中にわたしの聖所を置く。』


契約とは、モーセを通して受け取った十戒でありました。平和の契約は、平和をもたらす新しい契約で、永遠の契約となると神様は言います。平和の契約とは、どのようなものなのでしょうか? エゼキエル書と記事の時代が近い、ホセア書にこのように預言されています。

ホセア『2:20 その日には、わたしは彼らのために/野の獣、空の鳥、土を這うものと契約を結ぶ。弓も剣も戦いもこの地から絶ち/彼らを安らかに憩わせる。

2:21 わたしは、あなたととこしえの契りを結ぶ。わたしは、あなたと契りを結び/正義と公平を与え、慈しみ憐れむ。』

 戦いをこの世から無くすことも、民に正義と公平を与えることも、民を憐れむことも、神様の業だと言うことですね。そして、偶像礼拝をやめさせるのも神様。つまり、民のせいにしていないのです。そして、何の罰も用意していませんし、民に何も求めていません。神様が求めていることは、あなたと契約する事だけです。そして、神様は神殿に住むのではなく、民の真ん中に住むことを宣言します。これは、私たちの只中に聖霊を置くとの預言でした。こうして、永遠の契約が結ばれて・・・永遠に、神様は私たちを慈しんでくださるのです。


 神様は、『「わたしは彼らの神となる」』と宣言しました。

それは、新しい契約であり、平和の契約によって完成されるのです。十字架での犠牲、死んで、葬られ、復活したイエス様が再び来られるときに、救いがやってきます。そして、永遠の契約ですから、神様と契約をしたその時点で救いが約束されているのです。私たちは、神様の慈しみに委ねるだけです。

 イスラエルの民に裏切られては、警告を出し続け、そして一時はイスラエルを見捨てようとした神様でしたが、こうして、また「わたしは彼らの神となる」と宣言しました。そしてイエス様をこの世に送って、私たちを救おうとされる神様。神様を裏切ってしまう、このどうしようもない私たちのために一方的な契約を結んで、とことん慈しんでくださる神様に感謝いたしましょう。