マタイ9:1-13

罪人のために

2023年 730日 主日礼拝  

罪人のために

聖書 マタイ9:1-13

 今日の聖書、中風の人を連れてくる物語は、マルコ(2:1-12)にもルカ(5:17-26)にもあります。マルコが「屋根をはがし、穴をあけて」とありますし、ルカでは「屋根に上って瓦をはがし」とあります。ところが、マタイでは屋根を壊して吊り下すと言う描写自体がありません。おそらくマタイは、屋根を壊したエピソードよりも、「床に寝せたまま連れてきた」ことの方を重要視したのだと思います。


 さて、イエス様はガダラへの伝道から帰って来たところでした。ガダラで悪霊退治をした結果、大勢の悪霊たちが豚に入り、その豚たちは死んでしまいました。そのことを恐れたガダラの人々はイエス様に出ていくように要請をします。やむなく、イエス様は本拠地カファルナウムの家に帰ってきていました。当時の家ですが、ごくごく普通の家は、玄関はなく、ドアもない入り口を入るとそこには中庭があります。中庭の左右に一部屋づつ、このうちの一部屋は家畜を飼うために使います。入り口の向かい側にも一部屋あります。そしてそこだけは2階もあります。普段生活するのは中庭か、左右の部屋の屋上です。屋上は木の枝を渡した上に、泥を固めた簡単な構造です。また、ユダヤでは4部屋と言うのが普通でした。なぜなら、基本的に結婚する前に新郎側が家を準備する習慣なので、親と同居することがありません。そういう意味で、4部屋で十分だったと思われます。このような家ですから、中の様子は外からでもうかがい知れるような、あけっぴろげな生活をしていたわけです。イエス様はガダラ伝道を諦めて、この家に帰ってきました。ガダラは、イスラエルの12部族の内のマナセ族の嗣業の地です。ところが、実際このあたりに、イスラエル民族が住んだことが無かったのです。ほかの民族(バサン)の土地でした。また、ローマの支配時期には、ローマ直営地となり、デカポリスと名付けられた地方です。つまり、ガダラの地には、ユダヤ教がほぼ存在しないと言えます。せっかく、ガリラヤ湖を渡って、伝道しようとしたもののイエス様は、無駄足を運んでしまったわけですね。ところで、マルコとルカでは、この豚に悪霊が入る記事は、独立しています。一方で、マタイの今日の記事は、ガダラ伝道と繋がっています。その伝道失敗で、イエス様のグループの元気が無いところに、癒されるべき人がやってきました。中風の人が寝床ごと運び込まれたのです。そのせいか少し、イエス様も張り切りすぎたような印象があります。寝床ごと人を運ぶというのは、多少強引に見えますが、運んできた人々は、「イエス様ならば、この中風の人を治せる」と、信じていたからこその行動でしょう。イエス様が招きたかった人々がやってきた。ガダラでは見られなかった、信仰を見て取ったイエス様は、さっそく中風の人に声を掛けます。

「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」

 この当時は、病や怪我は、本人や親の罪の結果の罰であるように言われていました。ですから、ただでさえ病気やケガで不自由をしている上に、さらに自業自得でしょ!と責められるわけです。病が治る見込みがない。そして、犯してしまった罪のために神様に裁かれている。そのように、罪を問われ、その罪を自覚していたのです。このように、罪人であることを認め、そして日々、反省する人生を送っているわけです。それが、病以上に辛いのです。こうした、存在を否定された人生ならば、生きていく元気がでないのです。そこで、イエス様は、その中風の人に罪の赦しを宣言しました。「だから、生きていく元気を取り戻すんだよ。」とのイエス様の励ましです。イエス様は、罪のためだと追いつめられ続けていたこの人の魂の救いを、病より優先したのです。病が治るよりも、魂の救いの方が大事だからです。しかし、そう思わない人たちがいました。律法学者たちです。「この男は神を冒涜している」と心の中でつぶやいたのです。彼らは、魂の救いよりも、神様の権威を借りて人を裁く方が大事だったからです。イエス様は、そのことを見抜いて言います。

『9:5 『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。9:6 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」』

 こうして、中風の人は、癒されました。罪を赦す権威を持っているイエス様は、中風を癒すこともできます。もちろん中風をその場で癒すのは、奇跡としか言いようがありません。その奇跡を見た律法学者たちは、だまってしまいます。この律法学者たちは、人々が癒しを願っているときに、一緒に願うでもなく祈るでもなく、 その上「神を冒涜している」と言ってイエス様を裁きました。一方で、癒された中風の人は、純粋に罪を認めていると言えます。それと比べて、この律法学者たちは、イエス様をも裁こうとする・・・罪深いのは、律法学者たちの方です。そして、自分の罪には気がついていません。賢くて、学門が出来る。それなのに自分の罪に気がつかずに、人の罪を指摘してまわる人々。彼らよりは、神様はこの中風の人の「私は罪人だ」との悔い改めを顧みてくださるでしょう。

 

 次に、マタイを弟子にする物語です。この弟子となるマタイは、この福音書を書いたマタイとは別人です。当時の徴税人は、罪人とされていました。その理由は、徴税人は、敵であるローマの代理人だからです。徴税人は、ユダの人々から見ると祖国を裏切っている人なのです。そして、そのローマの権限を使って、税金を多く集めて財を成しています。どう考えても、嫌われ者であったと言うことです。特にファリサイ派の人々は、徴税人を罪人扱いして、一緒に食事をしたりはしませんでした。ユダヤ教の教師である律法学者も、徴税人に関わろうとはしません。それなのに、イエス様は・・・徴税人のマタイに近づきました。「わたしに従いなさい」とのマタイの記事は極めてシンプルです。だから、すぐにマタイがついて行ったことしかわかりません。しかし、かえって、罪人とされている徴税人を弟子として招いた事実が、強調されるのです。この記事は、イエス様が罪人の罪の赦しのためにこの地上に来られたことを象徴しています。罪を自覚しているであろう徴税人を弟子にする。イエス様は、ファリサイ派の人にではなく、罪を自覚している徴税人に「弟子になるよう」声をかけたのです。罪を自覚していれば、イエス様を受け入れる準備が整っているからです。律法学者たちのように、人の罪を指摘するばかりで、自分は罪が無いなどと思っている人々は、自分の罪に気がつくことがまず先です。それが、イエス様に招かれるために必要な準備であります。

 その徴税人マタイの家に、イエス様が招かれたのでしょう。その席には、徴税人と罪人がいました。ファリサイ派の人々からすると、そんな罪人と同じ席で食事するなど考えられなかったので、弟子たちに聞きます。

『9:11 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。』

 ファリサイ派の人々は、そもそも、何をしに来ていたのでしょう。徴税人マタイの食事会に招かれた様子はありませんし、マタイの家の中に入った様子もありません。家の入口あたりから、中庭と屋上を覗いて、弟子たちに声を掛けたようです。当然、その位置関係からすると弟子たちへ掛けた言葉は、イエス様にも徴税人にも、そして罪人にも聞こえます。この、「罪人とは付き合ってはならない」との考えは、差別的で、あってはなりません。そこで、イエス様は、このように言います。

『「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。』

イエス様を必要としているのは、心がいたんでいる人です。また、自分の事を罪人だと知っているから、イエス様が必要なのです。ファリサイ派の人々のように自分が正しいと思っている人は、自分の罪に気がつくまで、決してイエス様を求めないのです。

そして、イエス様は、ホセア書からこの言葉を引用します。

ホセア『6:6 わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。』

これは、ヘブライ語独特の言い回しだそうです。生贄や献げ物を否定したのではなくて、「私は犠牲よりも憐れみを求める」と言うことです。犠牲とは、形式的な儀式つまり掟の遵守を指します。そして憐れみとは、神様の愛の行為を指しています。つまり、イエス様は、「人の作った掟を守る事よりも、この罪人たちと共にいることを選ぶ」と 宣言をしたわけです。ファリサイ派の人々は、罪人を裁いています。それに対してイエス様は、ご自身が罪人として裁かれるために、この世にやってきました。そして、正しい人ではなく、罪人たちに神様の憐れみを配ることを選んだのです。だから、イエス様はこう言いました。

『わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』


 言うまでもありません。人間の事ですから、まことに正しい人などはいません。しかし、自分を正しいと思っている人は、たくさんいます。イエス様の言った正しい人とは、「自分を正しいと思っている人」を指します。そしてその人は普通に、罪人なのです。だから、罪人であることを自覚していない人は、まず自分が罪人であることを知ることが、必要なのです。ここに出てくるファリサイ派の人々は、律法学者と同様に、罪人としての自覚がありません。ですから、罪人に寄り添うイエス様をマタイの家まで追いかけて来ながら、罪人の家に入ることを避けます。「私は、罪人ではない」との意味もない誇りが邪魔をして、イエス様に魂の助けを求めることが出来ないし、罪人の交わりの中にも入ることが出来ないのです。それでもイエス様は、そのようなファリサイ派の人々や律法学者たちも招いておられます。罪人としてです。しかし、真っ先に招かれると思い込んでいるファリサイ派の人々や律法学者たちは、罪を自覚している人よりも後にならざるを得ません。

マタイ19:30『~先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」』からです。


 さて、この物語を通してファリサイ派の人々の信仰を考えてみましょう。彼らにとって神様の憐れみよりも、人の作った掟で縛ることの方が大事なのです。ファリサイ派の人々は、イエス様をも縛ろうとしました。もし、その縛りを受け入れるならば、イエス様がやりたいことである「罪人に寄り添う」ことが出来なくなります。この縛りは、いけにえを求めているのと同じです。ファリサイ派の人々は、神様が私たちに示してくださる無限の憐れみよりも、私たちが神様に捧げる外見的ないけにえである「戒め」を見ています。だから、神様を礼拝するのではなく、献げ物を拝んでいるようなものです。このような信仰は、偽りであります。そもそも、神様よりも、献げ物が大事ならば、宗教ではないと言われてもしかたがありません。


 イエス様は、憐れみ深い方です。そして、罪人であることを自覚して、失望の中にいる私たちに寄り添ってくださるお方です。そして、イエス様は招いておられます。私たちの罪を赦すためにです。ですから、「私たちの罪による失望から救ってください。」とイエス様を信じて、お祈りしましょう。そうすれば、私たちの罪は赦されるのです。そして、罪人であるとの失望から解放していただきましょう。