Ⅰテサロニケ5:12-28

いつも喜んでいなさい

使徒パウロは、テサロニケの信徒たちに彼らの教会の指導者に対して、大いに敬意を払うように勧めています。テサロニケ教会の指導者の使命は、教会を指導し教え、使徒たちの指し示した道を歩むように導くことでした。教会の指導者たちへの信徒たちの「評価」が適切でないことが、13節からうかがえます。教会の指導者たちに対する態度についても、これとまったく同じことがあてはまります。教会の指導者たちをその任務のために召したのは、神様御自身です。彼らが行う任務自体がきわめて尊いことであるがゆえに、彼らのことを敬うべきなのです。

 ただし、神様の御言葉の範囲内で、教会の指導者たちを敬うべきです。もしも、誰かが聖書の明確な御言葉に反するようなことであれば、敬意を払うことはしないでしょう。 

教会の指導者をめぐる話を、パウロは重要な言葉(14-15節)によって締めくくります。

パウロは、本心から相手を愛し、助け、励ますように お勧めするのです。

 いつも喜んでいなさい

常に喜ぶように、とパウロは勧めます。この喜びは、罪の赦しをいただいたことからくる喜びです。私たちは罪を免除され、神様の子どもとされています。神様の子どもとしての喜びは、信仰者の顔にも表れます。パウロは絶えず祈り感謝するように、とテサロニケ教会に勧めています。神様は私たちが絶えず祈ることで、私たちと会話をし、共におられることを望んでおられます。

Ⅰテサロニケ「5:20 預言を軽んじてはいけません。5:21 すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。5:22 あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。」

人々は預言に対して、どのような態度をとるべきかについて、パウロは二つ命令をしています。第一に、預言をすぐにないがしろにしてはいけない、ということです。神様が教会に対して誰かを通して語りかけることは、しばしば起こることだからです。第二に、パウロはすべてのことを吟味するように命じています。神様からの直接のメッセージを携えていると主張する人がいたとしましょう。しかし、そのメッセージ、天の御国とはまったく異なるところから発せられているかもしれません。預言の真偽を見分けるために、パウロは「祈り」の必要性説いています。「よい預言」はしっかりと保ち、「悪い預言」は斥けなければなりません。しかし、その判断は祈って求めるしかないのです。

手紙の結び

この手紙の結びは祈りによってはじまります。

5:23 どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。

どうかテサロニケ教会を聖なるものとして保ってくださるように、と使徒パウロは祈ります。教会がイエス様への信仰を保ち、主イエス様がこの世に再び帰ってこられるその日までの日々の歩みを続けるように、パウロは祈り求めているのです。23節に出てくる「霊も魂も体も」という表現で、パウロはこの「人間」はすべての点で「責められるところのない者」でありたい、と祈っているのです。

最後の25〜28節は、使徒自らしたためた手紙への署名であるとも言えます。彼はテサロニケ教会のとりなしの祈りを願い求めています。パウロにとって、とりなしの祈りこそは、力の源であったからです。パウロはこの手紙ができるだけ多くのキリスト信仰者に読まれることを、主の名によって手紙の受け取り手たちに託しています。このように命じることは、当時のユダヤ人の間では一般的な慣習とは言いながら、「主による命令」には重要なメッセージがあります。パウロはテサロニケ教会全体およびキリスト教会全体について霊的な責任を負っていました。それゆえ、多くの人がパウロの手紙を読み聞かされるようにしたかったのです。

わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように。

この手紙の最後の節は、願望に加えて、祝福でもあります。イエス様の恵みは私たちと共にあります。イエス様は、信仰生活のゴールまで、ずっと私たちに寄り添ってくださいます。そう言う祝福です。