詩編131:1-3

都もうでの歌  

 

 ダビデの詩とされるこの短い詩編は、都に上る歌と題されています。サウル王の戦死によってペリシテ人に奪われていた主の箱がエルサレムに運び込まれたとき、ダビデは力の限り喜び踊ったエピソードがあります。それを見た妻ミカルはダビデを蔑んだ(サム下6:20)のですが、そのミカルへの応答のように、この詩を歌ったのかもしれません。

この131篇には、3つの異なる心の状態が書かれています。第一は謙虚さです。ダビデは、自分自身のためにすべての誇りと野心の放棄を歌います。(1節)

第二は静けさです。ダビデは、魂を静かにさせ、大人の雑念の全てを放棄することを歌います。(2節)

そして、最後は、神様に希望をもつ状態です(3節)。

 

1.神様に委ねる(131:1)

この詩編の作者とされるダビデは、イスラエルとユダの王として大きな責任を負っていました。ダビデは国の最高権力者でありながら神様の前にいつも謙虚でした。ダビデは、自分の及ばないことを理解しており、「主よ」と神様を崇め、決して奢ることも、高見に昇ることも、大きくなることも望みませんでした。神様が偉大であることを認め、ダビデ自身が及ばないことを知っていたからです。

私たちもそれぞれの立場で様々な責任がありますが、私たちは他人の気持ちがわかりませんし、感情をコントロールできないこともあります。しかし、それを認めているでしょうか。自分に出来ないことがあることを認めることは、つけ込まれるとの不安の元なのでしょうか?そうでなければ、誇り高い心が劣っていることを認めたくないだけでしょうか? そのような心には、平安はなかなかやってこないでしょう。ですから、神様に自分自身をゆだねて、心配を手放すことをお勧めします。そして、その心配は、高みにいる自分が、低いところに降りてくれば無くなります。なぜなら、もう高みを失う心配が無くなるのですから。

2.神様の愛に包まれる(131:2)

ダビデは、赤ん坊が母親に抱かれるように平安でありたいことを歌います。私たちも心配がなく、そして心から受け入れられる場所が必要です。そのためには、ダビデ自身が母親に抱かれる赤ん坊の様である必要があります。ダビデは、そのためには、魂をおちつかせ、静かにさせなければなりません。赤ん坊のように、大人の邪念のないところまで、魂を静かにさせるのです。そうすると、母親の愛もより強く感じられるでしょう。

神様の愛は、こうして赤ん坊の様に邪念のない人に良く伝わるのです。神様にそのお返しなどとのなんの見栄を張る必要もありません。ただただ、神様の愛を受け取っていればよいのです。真の父である神様の御前では、何の遠慮もなく全てを頂き続けて良いのです。神様は私たちを「赤ん坊を見る母親」のような愛で包み、無条件で愛して下さるお方です。日々、天のお父様の御前に出て、御言葉を通して愛されていることを確認したいものです。

3.神様による望み(131:3)

イスラエルに主を待ち望め と ダビデが歌うわけですから、やはり神の箱を運びあがったときの歌なのだと考えて良いでしょう。そして、ダビデはイスラエルの民に対してダビデの成功体験から、主を待ち望めと歌ったのかもしれません。

「今も、そしてとこしえに。」という表現から見ると、神様への「希望」を抱いていると感じるのではないでしょうか?つまり、その「希望」はまだ実現していないけれども、神様はきっとかなえてくださる。そういう心が、表現されているのだと思います。実際その希望がかなえられていたならば、「今も、そしてとこしえに」とは言わないでしょう。

現代は、大きな夢や希望を持ちにくい時代かもしれません。自分の持っている力、運、気力だけを見ていては、限界が見えてしまうでしょう。しかし、封建時代とは違い、私たちは学問も、教育も職業も自由に選べるのです。そういう意味で、昔と比べると、ずいぶんよい世界になったように見えます。逆に言うと、現代の方が成功の確率が高いながら、転落する危険性も高いのかもしれません。しかし、希望という視点では、昔よりはるかに希望を抱いてよい時代であることは確かです。それでも、希望を抱けないのであるならば、希望は自分でかなえるものとの気負いが邪魔をしているのではないかと思います。また、失敗も恐れてしまいます。しかし、全能で愛の神様にある私たちには、希望があります。なぜなら、神様は神のひとり子イエス・キリストを十字架にかけるほどに私たちを愛して、すべての失敗や罪を赦し、限りなく愛し続けて下さるからです。たとえ今どのような状況にあったとしても、愛なる神様は私たちをとこしえまで導いて、希望をあたえてくださるのです。