マルコ15:21-47

  イエスの死

 15:21~15:32は、先週も読みましたので、33節からはじめます。

 イエス様が十字架につけられたのが、9時でしたから、3時まで6時間で、イエス様はなくなられました。そのためには、総督ピラトは、少なくとも8時ぐらいには判決を下していたと言う事になります。当時のローマの習慣ですが、仕事は午前だけで午後は浴場で過ごす関係で、朝早くから仕事をするわけです。それに加え、日没までに埋葬を終わるためには、死刑判決は朝一番にしなければ間に合わないという事情もあると思われます。

1.イエスの死

 昼の12時になると、全地は暗くなりました。義の光を消すために、暗闇が現れたのです。そして暗闇は、キリストが人の罪のためのささげ物となっていたときに、その下に雲があったことを意味していました。イエス様は、弟子たちが自分を見捨てたと不平を言ったのではありませんでした。

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と父なる神がイエス様を見捨てたことを口にしました。「なぜ?」、特にこの事で、イエスは私たちのために罪人となりました。

 信じた者

罪人である私たちの罪のためのいけにえとして、イエス様は罪人として十字架にかけられたのです。イエス様が亡くなられたのと同じ瞬間に、神殿の垂れ幕は上から下まで真っ二つに裂けてしまいます。この垂れ幕は、神殿のなかで最も聖なる場所(至聖所)つまり、神様のおられる場所を仕切っています。これが裂けたことは、不信仰なユダヤ人に恐怖を語りかけるものです。つまり神様は、彼らの教会と国家の破壊のしるしを示したのでした。なぜなら、それはイエス・キリストの血によって最も聖なるものへの新しい生きた道を開くことを意味していたからです。キリストが公然と神様に語りかけ、御自身の魂を神様の手にゆだねたという確信は、そばで見ていた百卒長にさえも大きな影響を与えます。十字架につけられたキリストを見るならば、信じる者はその死を通して信仰を整えるでしょう。信じる者は、「信じる自分を救うために傷つき、突き刺された救い主」を見守り、愛し、賛えることを願っています。

 信じなかった者

『「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。15:36 ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。』

 群衆の中には、物見高いのでしょうか? 奇跡が起こるのでは?と期待して見ていた人々がいたようです。そういう意味で、イエス様の行った癒しの業は、しっかり群衆の心をとらえていたのだと思われます。しかし、十字架から降りてくる様子もないまま、死のうとしているイエス様を前にして、今までの様に力を見せないイエス様に対して、むしろ失望したのでしょう。イエス様は、国をローマ帝国から取り戻す「救い主」ではありません。ですから、自分の願いをかなえてくれる都合の良い「救い主」を待っていた群衆にとっては、イエス様のもたらす「救い」に興味がなかったのです。

 身内の者

イエス様の弟子たちは、すでに逃げてしまっています。しかし、婦人の弟子たちは追われる心配がなかったのか、イエス様が予告したとおりに復活することを信じていたのかわかりませんが、イエス様と同行していた多くの夫人たちが、遠くから十字架を見守っていました。

『婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。』

この3人は、イエス様に最も近い女性たちです。イエス様を葬るとしたら、その準備をするのはこの3人になります。そのために、残ったのか?この3人がイエス様の弟子たちの中で最も強くイエス様を信じていたから、残っていたのか?は、わかりません。両方かもしれませんね。

2.墓に葬られる

 金曜日の日没と同時に、安息日になります。安息日に葬りをすることができません。そこで、アリマタヤのヨセフは、イエス様を墓に葬る手はずを整えました。ここで、登場するイエス様の仲間は、マグダラのマリアとヨセの母マリアだけです。(ほかに婦人たちはいたと思われます)この3人は、イエス様の復活を信じて、葬りの準備をしたのかもしれません。また、将来のことも心配ではありますが、今やらなければならないのは葬りだとして、エルサレムから逃げ出さなかったのだと思われます。しかしまだ、葬りのためには遺体を清めて香油を塗り、亜麻布を巻かなければなりません。つまり、一度墓を閉めて、また開けに来る事になります。結果として、マグダラのマリアとヨセの母マリアは、イエス様が復活する前後の墓を見ることになりますし、復活の証拠に、墓は大きな石の蓋で封印されてしまいます。こうして、「復活のため」の、そして「復活を宣べ伝えるため」の舞台が整ったのです。