エフェソ2:14-22

かなめはキリスト

 要(かなめ)石:これは誤訳です。ほかの聖書の個所では、隅の親石等と訳されています。英語では文字通りcorner stoneです。また、この手紙のギリシャ語原文には「一番端」としか書かれていません。土台は、石でなければならないということではないようです。しかし、詩篇『118:22 家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。』とありますから、イエス様は家を建てる者の捨てた石ではあります。土台の一番端っこが、一番強度が必要な場所です。そこにイエス様が据えられていることを指します。 

矢印のところがkey stone

日本語では、「かなめ石」とよばれます。明らかに聖書の「隅の親石」とは別の用途の石です。 ほかに、地震を鎮める要石もありますが・・・

 隅の親石は、単数形で使います。キリストは一人だからです。一般的には、コーナーストーンは複数(例:四隅、一か所に石垣のように多数)あるわけですが、建築物の銘付きのものは、一つであることが一般的です。教会の隅の親石は、キリストであります。教会の顔(頭)であり、そして教会の建物を支えるように、集まる人々の信仰を支えているわけです。

 隅の親石が支えるのは、イスラエルの国家であるとしたならば、イエス様の時代の国家の指導者たちが家を建てる者にあたります。為政者から見捨てられたイエス様が、教会の隅の親石となって、教会を支え、そして全世界を一つにされようとしているのです。


1.キリストによる平和

 パウロは、「キリストはわたしたちの平和」だと言います。キリストが来られたことで、平和が訪れたこと、そして、具体的に平和をもたらすことをされていることをパウロは説明します。二つのものとは、敵対する者同士なのでしょうか?もしくは、区別とか差別のことでしょうか?この聖書の個所の前には、あきらかに異邦人たちへの言葉がありますので、ユダヤ人と異邦人との関係を言っているのだと推測されます。ユダヤ人と異邦人はもともとは敵対する者同士ではありません。ところが、区別をすることによって、時に敵意が起こります。しかし、イエス様は、異邦人への伝道をすることによって「隔ての壁」を取り払いました。これで、平和がもたらされるはずです。すると、今度は信仰にはいった異邦人に対して、生活習慣までユダヤ人になるべきだとの考えと、異邦人の生活習慣のままで良いとする考えとの間で、敵対が起こりました。まさに、「律法を守りなさい」という考えが古くなっていたのです。イエス様は、すでに規則と戒律ずくめの律法を廃棄したのです。新しいイエス様の掟によって生活すべきなのです。ですから、律法に対してどちらの考えを持っているにしても、「相手が直すべきだ」という前に、自分自身でイエス様の掟に従って新しい人間となることが必要です。イエス様は、十字架にかかられたことによって、わたしたちと神様の間の和解をもたらしました。こうして、私たちの敵意をなくされたのです。ですから、わたしたちは世界が一つになるように、福音を延べ伝えなければなりません。イエス様の教えに従うならば、敵意も差別もなくなるのです。イエス様は、その敵意や差別という私たちの罪を、イエス様自ら十字架につけられて裁かれることによって、贖われたからです。イエス様の福音を聞き、信じたものには敵意も、差別も生れません。ですから、イエス様の福音が広まったところには、平和が訪れるのです。

2.一つの霊に結ばれて

 両方の者とは、異邦人とユダヤ人との前提でパウロは話をしています。異邦人でユダヤの神様を信じて礼拝する者のことを、主を恐れる者と呼んでいました。この人たちは、改宗者ともユダヤ人とも呼ばれませんでした。それが、生活様式をユダヤ式に切り替えて、律法を守ることで、民族の別なく改宗したユダヤ人と認められてきましたから、そこに明確な区別があるわけです。例えばエルサレムの神殿では、主を恐れる者は神殿の中に入ることは許されませんから、異邦人の庭までしか入れません。ところが、改宗してユダヤ人となった民族的異邦人は、異邦人の庭より奥に入ることができました。もともと、このような異邦人の受け入れ方だったわけです。そこへ、イエス様が異邦人への伝道を進められた結果、主を恐れる者とユダヤ人との区別さえも、不要になってしまったのです。イエス様によってユダヤ人も異邦人の主を恐れる者も一つの霊によって結ばれたからです。

 外国人とは、お客さん扱いされる人でありますし、寄留者とは単にそばに住んでいる人のことを指します。いわゆる「よそ者」ということでしょうか? イエス様を信じる者同志は、決して「よそ者」ではありません。神様の民でありますし、神様の家族です。わたしたちは、使徒や預言者の土台の上に建てられた教会として一つになっているのです。この信仰の建物の銘(顔)であり、建物の全体を支えるのはキリストであります。そのキリストはイエス様でありました。

 キリストによって、教会は成長させられます。神様の民が教会で一つになって成長するわけです。これは、異邦人の信徒に対して、ユダヤ人と和解するようにとの、パウロの進言であります。ユダヤ人たちが異邦人を区別しないことに対して、キリストにあって努力すべきですが、異邦人の方もユダヤ人と敵対しない努力が必要だったのです。平和は、黙っていても訪れるのではなく、イエス様によって、導かれるよう祈って求めて得られるものです。