ローマ2:1-16

裁くことは罪?

1.裁くことは罪? (2:1-6)

 ここで使われている「裁く」は、judge(判定する)です。思い通りに操るとか、すべて売りつくすとか、複雑な問題を適切に処理するという意味も「裁く」にはありますが、「判定する」事についてのみパウロは、言及しています。それも、「罪に定める」ことに限定しています。法律的には、罪に定めることができるのは裁判官(員)だけですが、日常的に「罪に定める」ことは行われています。一つ例を挙げると、レッテル張りがあります。個人の性質について、「あの人はこういう人だ」(罪人)と決めつけて相手を区別したり、言いふらしたりするならば、これは、人を裁いたことになります。告げ口も、純粋な通報でなければ、「あそこに罪人がいますから裁いてください」と言っていることなので、裁く人本人ではなくても、人を裁いた事になるでしょう。パウロは、人を裁いて罪に定める事そのものが罪だと考えています。 「裁くことができるのは、神様だけ」であり、「私たちには、人を裁く能力がない」ことは、わかります。しかし、どうして「つい、人を裁いてしまった」ことが、神様によって裁かれなければならないほどの「罪」になるのでしょうか? もちろん極悪非道な裁きを行う人であれば、神様に裁かれることはわかりますが、一般市民が「軽微な裁き」をしたからと言って、神様から「罪」に定められるのでは、すべての人が「罪」に定められてしまいます。

 神様は、人間を「罪」に定めようとしているわけではありません。むしろ、悔い改めるように導いてくださいます。しかし、その神様の慈悲と寛容と忍耐を知ってか、知らないでか、どちらにしてもその神様の導きを軽く見ているならば、それは、神様を知らない「罪」と同じと言えると言う事です。神様を知っていたとしても、行動で示すことができなければ、それは神様を知らないのと同じだからです。 

 

2.分け隔てされない神様(2:7-16)

 ばらばらにして並べましたので、見比べてみましょう。(弁償法的に見ることができます)

①忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者⇒永遠の命を与える

②反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者     ⇒怒りと憤りを示す

③善を行う者                    ⇒栄光と誉れと平和を与える

④悪を行う者                    ⇒苦しみと悩みが下る

 

パウロは、このようにユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが、この通りになると宣言をします。ここで、不義と言っているのは、異国の神様を礼拝する等、ユダヤの神様を信じていないことを指します。4項目のなかで、(①と②)、(③と④)が反対命題になっていますので、組み合わせが4通りできます。ユダヤ人は、①か②に分類され、ギリシャ人はユダヤの神様を礼拝する人を除くと、②に分類されます。

 

 ①かつ③:永遠の命+栄光と誉れと平和

 ①かつ④:永遠の命+苦しみと悩み(①で善を行う者だとわかるのでこの組み合わせは不成立)

 ②かつ③:怒りと憤り+栄光と誉れと平和(☆神様を知らなくても、栄光と誉れと平和は与えられる)

 ②かつ④:怒りと憤り+苦しみと悩み

 

 このように、たとえギリシャの人がユダヤの神様を知らなくても、ユダヤの神様はだれにでも「栄光と誉れと平和」をくださるのです。『2:11 神は人を分け隔てなさいません』

そういう意味で、律法を聞いて知っているかどうかではなく、善を行うことが義とされるのです。もちろん、律法を知っていながら悪を行うのは論外ですし、律法を知らないことが悪を行った言い訳にはなりません。行動の結果が悪であれば、神様は裁かれるのです。逆に、律法を知らなくても、善を行うことができます。それだけ、律法に書かれている事柄は、普遍的なものなのです。専門の律法学者がたくさんの律法を守るように教えたとしても、その教えることのすべては「隣人を自分のように愛しなさい」との掟にすべてが要約されるのです。

パウロ自身このように言っています。

 

ローマ『13:8 互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。13:9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。13:10 愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。』