使徒6:1-15

執事の選出

 

イエス様の弟子たちは、ますます力を得て、伝道をしていました。伝道の対象はユダヤ人ですが、このころは、世界中に散っていたユダヤ人(ディアスポラのユダヤ人)の多くが、先祖の故郷に帰ってきていました。(ローマ皇帝の命令で、皇帝を礼拝しない者がローマから追放された) だいたい、ローマ世界の公用語がギリシャ語でしたので、その多くはギリシャを語を話す人々でした。

 

1.執事の選出

 ヘブライ語(実際はアラム語)を話すことが出来ない人が、沢山この群れに加わりました。その結果、ヘブライ語を話す使徒たちでは、この群れをさばききれなくなっていたのです。この群れは、ごく初期の時代ですが、共同生活をしていたものです。そのための日々の配給が、言葉が通じないギリシャ語を話す人々、そしてその中でも弱い人々に不満が出る程、いきわたらなかったという事です。そこで使徒たちが決めたことは、使徒が直接お世話をするのではなく、信徒にその仕事を任せる事でした。選ばれた7人全員がギリシャ語を話す人々でした。

  

 その結果、各教会では7人の執事を信徒から選ぶようになったのです。この7人に、ヘブライ語を話す人々とギリシャ語を話す人々への日々の配給の事務を任せたのです。 そして、その執事の役割ですが、配給などの事務的な事を一手に引き受けただけではなく、宣教も担っていました。そして、ユダヤ教から使徒たちの群れへの反発もありました。

 

実際に、ユダヤ教からの反発を受けたのは、ステファノらのギリシャ語を話すユダヤ人であって、ヘブライ語を話す使徒たちは反発されていません。ですから、ユダヤ教からの迫害は、ギリシャ語を話すユダヤ人に向けられていました。

 

2.ステファノの逮捕

 ステファノの逮捕の記事ですが、キリスト教の中心が12使徒ではなく、ギリシャ語を話す人々に移り変わっていたことをまず理解してください。この記事に12使徒は出てきません。なぜなら、彼らは主流派争いには加わっていないからです。その、主流派争いには所謂リベルテンの教会(「解放された奴隷の会堂」)など、世界各地から戻ってきたユダヤ人たちのなかにありました。それは、ステファノなどの7人の執事の働きに叶わなかったようです。そして、勢力争いの結果として、ステファノの信仰を否定するような訴えにまで及んでしまいます。

 歴史は、このような出来事を突破口として、恣意的な裁きと迫害を繰り返すわけです。ステファノは死刑になりました。イエス様の十字架刑の時の様には、最高法院は動きませんでした。「私刑」を選んだのです。これは、石打の刑です。だれの責任で刑に処したのかがあいまい。そして、誰が殺したのかもあいまいな処刑です。

 

つまり、最高法院は「きわめて卑怯な裁き」(群衆に委ねて、判断しなかった)をしたわけです。それでも、ステファノはまっすぐに神様の方を向いて、偽証に対して争うのではなく、すがすがしく証しをし始めました。

 

石打の刑:合法的な刑ではありません。だから、処刑の根拠(訴え、罪となる証拠、弁護、弁明、判決理由、判決)はあいまいです。

(残念ながら、現代でもまだ続いています。)

     石を投げて 殺すという残虐な行為です。

      (3日くらいかけてなぶり殺しにすることを知っておいてください。)

     石を投げた人々は、誰の投げた石で死んだかはわかりません。

      (つまり、だれにも命を奪ったという良心の呵責が起き得ません。)

     そして、だれが石打の刑に値すると判断したかは、あいまいです。

      (だれもその判決に責任を持っていないのです。)

   これは、群集が訴えを起こし、そして裁判官と死刑執行人を兼務している上、弁護、再審制度がなく、即執行といった問題があり、

   とんでもない私刑の死刑制度と言えます。