エフェソ5:6-14

  光の子として 

2021年 2月 28日 主日礼拝

『光の子として』

聖書 エフェソの信徒への手紙 5:6-14 


 イエス様の十字架の出来事と向き合う四旬節の第二週です。

今日の聖書の箇所は、自らの行動を吟味するという意味で、四旬節を迎えた今の時期に相応しいと思います。

このエフェソの信徒への手紙を書いたのはパウロです。パウロは、エフェソの信徒たちに、『光の子として歩みなさい。』(エフェソ5:8)と勧めました。パウロは、エフェソの信徒たちの歩みが、光の子としてあまり相応しくないことを知っていました。それは、今日の聖書の箇所の少し前に書かれています。具体的には、こんな記事です。

エフェソ『5:1-4神に倣う者となりなさい。/愛によって歩みなさい。/みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。/感謝を表しなさい。』 

パウロは、このお勧めを守らないと、どうなるかを続けて忠告します。

エフェソ『5:5すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい』

 そして、パウロは「光の子として歩む」と言う視点で、語り始めたのです。こうしなさい、ああしなさいと教えたり、これはダメですと禁止したりするのも必要なことですが、それだけでは、エフェソの信徒の心に響かないと思ったのでしょう。エフェソの信徒の信仰を変えていくためには、もっと心の中に落ちる動機が必要 ・・・そんなことをパウロは意識していたのだと思います。


 「光の子として歩む」とは、今までのしがらみや、価値観という服を脱ぎ去って、新しくキリストを着るという意味です。私たち人間の中身は変わりませんが、キリストを着ることによって、歩み そのものが変えられるのです。

エフェソ『5:6むなしい言葉に惑わされてはなりません。という注意に加えて、「光の子として歩む」こと。これが、パウロのお勧めでした。むなしい言葉など、人の言葉に惑わされるのは、その誘惑の言葉そのものに関心があるか、その言葉をかける人本人への関心が高いからです。つまり、エフェソの人々は、結果として、そのような誘惑に惑わされたのでしょう。しかし、私たち普通の人間では、「誘惑に負けないようがまんしなさい」 と 言われても、なかなか我慢し続けるのは難しいと思われます。それ、我慢我慢と言うのでは無くて、「目的をもって歩みなさい」と パウロは言い方を変えました。こういう事であれば、元気が出てきます。


 「光の子として歩む」そういう目的を持っていれば、そして、その目的がいったいどのようなことを齎すのかを理解していれば、よろこんで取り組める。そういった希望が見えてくると思われます。

『あなたがたは、以前には暗闇でした』(エフェソ5:8)と、パウロは言いました。

キリスト教の信徒になる前は、エフェソの信徒は暗闇だった。そして、光の子になりなさいと、パウロはお勧めをしています。暗闇だったという事は、特にこの箇所には説明がありません。エフェソの信徒たちは、どんな暗闇の中にいたのでしょうか? 少し説明が必要だと思います。

 エフェソは、今のトルコの小アジアに位置していて、当時は小アジアの首都でした。同時に交易の盛んな港町であり、政治、経済、文化においても一大中心地でした。特に、オリエント圏(東側の文明圏)でありながら、ギリシャ文明圏に近いものですから、それぞれの伝統が混ざった状態だったようです。例えばエフェソには、ギリシャ神話に出てくる狩りの神アルテミスを祭った神殿があって、その壮大なアルテミス神殿は古代の世界七不思議と言われていました。そして、エフェソのアルテミス神は、ちょっと変わっていました。オリエントの古代宗教の影響があったのです。そういうわけで、ギリシャの女神とメソポタミアの豊饒の女神があわさったようなエフェソ特有のアルテミスの像が残っています。

ここで、キリスト教の立場でエフェソの街を考えてみましょう。第一に問題になるのは、アルテミス神はギリシャの神々の一つであり、それを刻んだ像があることです。そして、エフェソの信徒達自身のことです。彼らは、信仰に入る前の行いについて、使徒言行録はこの様に書き残しています。

使徒言行録『19:18信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。』 このように、書かれていますので、淫ら、汚れ、貪欲などの悪行がエフェソの信徒達によって行われていたことがわかります。パウロは、これらの行いについて、「暗闇」と呼びました。

「光の子として歩む」・・・暗闇から抜け出すと、そこには光があります。

エフェソの信徒たちは、イエス様を信じて、この暗闇から抜け出したばかりでした。ですから、経験のない光の中で、どのような生活をしていくかは、改宗した人々にとっても、エフェソの教会にとっても大きな課題だったわけです。

 

聖書は、たびたび「光」を象徴として用いています。もともと、光を造られたのは神様です。ですから光は、神様御自身を象徴しています。神様は、すべての光の源(みなもと)なのです。そして、「光の子」とは、神の子ども、つまり神様を信じる者を指す特別な呼び方です。

「光の子」として、私たちは神様から「ふさわしい歩み」を命じられていることを、パウロは教えました。古い生き方を捨て(エフェソ4:17-24)、新しい生き方(エフェソ4:25-32)をするようにと言うことで、このようにアドバイスするのです。

『あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。』(エフェソ5:8)

「光の子として歩む」ことは、パウロの勧める信徒としての生き方です。「神様に愛され」ていることを知って、「神様に愛されたように、神様と人を愛する」。パウロは、そういう新しい生き方を、エフェソの信徒たちにお勧めしたかったのです。

 

さて、(エフェソ5:9)に『――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――』とあります。

注:「善意(ἀγαθός):本質的に良い、正義(δίκαιος):義にかなった、真実(ἀληθής):真実、隠されていない」


ギリシャ語の原文には、果実(くだもの)を指す(καρπὸς)言葉がありますが、新共同訳の聖書では省略されています。そのまま原文を直訳すると、このように書かれています。「光の働きによる果実は、善意と正義と真実からなっている。」・・・果実と言う言葉は、ガラテヤ5:22-23にも「霊の結ぶ実」として、出てきますので、紹介したいと思います。

ガラテヤ『5:22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、5:23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。』

ここから、「光の子として歩む」には、善意、正義、真実が用いられることがわかります。そして、その結果得られる「霊の結ぶ実」は、「愛、喜び、平和、親切、善意、誠実、柔和、節制」と大きな果実となるのです。

ところで、パウロの言う「善意、正義、真実」は、異教徒のギリシャ人やローマ人が使っていた意味とは異なっています。そこにはキリスト教独特の意味があります。

善意とは、一般に「良い心」を指しますが、パウロの教えの中では、善意は愛の一面です。また、正義は古代ギリシャ時代以来、「各人への正しい配分」のこととして、一般に使われてきました。つまり、その人の働きに相応しいものを配り、そして保護されるべき人にはその必要なものを配ることが正義でした。一方でパウロは、正義(義)とは「神が人間の罪をゆるし、義しい人と認めること。」を正義と呼びます。そして、真理。一般的には、「いつどんなときにも変わることのない、正しい物事」を指します。ところが、キリスト教では、「正しい事実、正しい知恵、正しい知識」と言ったことを必ずしも真理と呼ばないのです。例えば、ヨハネによる福音書が繰り返し使っている「真理」という言葉は、イエス・キリストその人を指しています。例を上げますとヨハネによる福音書にはこのように書かれています。

ヨハネ『14:6イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』

 

私たちの「善意、正義、真理」に対して感じる言葉の感覚は、どちらかと言うとギリシャ人の感覚に近いと思います。善意という言葉の中に、「愛」によることを強調しません。むしろ、悪意が立証できなければ善意と解釈されます。そこに、キリスト教との大きな違いがあります。キリスト教では「愛『一方的な愛のアガペー(ἀγάπη)』とは、神様の人間に対する愛」のことなのです。善意には、神様の人間に対する一方的な愛から生まれる、自己犠牲的な心が含まれるのです。 また、キリスト教でいう正義、真理も主語は私たちや私ではなく、イエス様です。決して、私たちが一般生活で願う「正義や真理」ではありません。キリスト教でいう正義とは、「イエス様がわたしたちの罪をゆるされること」そして真理とは「イエス様のこと」なのです。

 

 先ほどの、(エフェソ5:9)の部分ですが、「光の働きによる果実は、善意と正義と真実からなっている。」と直訳できると説明しました。この、「光の働きとは、光の子として歩むこと」をさすと思われます。また、善意、正義、真実についても置き換えると、パウロのこの言葉は、この様になります。

「光の子として歩みなさい。そのためには、イエス様の一方的な愛と、イエス様のゆるしそして、イエス様ご自身と、共に歩みなさい。」

パウロは、イエス様の愛とゆるし、そしてイエス様自身がもたらす光の働きに、身を任せるようお勧めしているのです。

 

このお勧めの中で、善意、正義は、キリストにある愛と、親切と寛容さ等によって、起こされます。イエス様は「光の子として歩みなさい」と善意、正義を行うよう命令しますが、その結果、善意、正義を行える場合も行えない場合もあります。その結果だけを見て、私たちは善意、正義が欠けていると言って人を罰することはできません。そして同じように、神様は「隣人を自分自身のように愛する」ことを命じられていますが、私たちは「自分しか愛せない」人を裁くこともできません。それがもし、イエス様だったら、この善意が欠けている人を罰するのでしょうか? そして、自分しか愛せない人を裁くのでしょうか?

 正義の神様ならば、正しくないものを裁いてくださるはず・・・

そのように期待してしまう私たちだと思います。

                                                                                                                                                       

しかし、イエス様はそうは、なさいません。

 

なぜかと言うと、イエス様は、「わたしたちの罪をゆるされている」からです。そして、決して正しくない者でさえも許されているように、私自身が、そしてあなた自身が その罪をゆるされているのです。すべての人が、イエス様に愛されるがゆえに、すでに許されています。その恵みに感謝をしながら、「光の子として歩み」たいですね。

私たちは、イエス様につながる愛と善意によって暗やみから光へと救い出されました。私たちはそのことを証ししながら、福音の光を広めて行きましょう。

イエス様に祈って、より頼みながら、「光の子として」歩んでまいりましょう。