2024年 10月 20日 主日礼拝
「悔い改めたダビデ」
聖書 サムエル記下23:13-17(サムエル記下5:17-21)
来週は、降誕前第9節。それにちなんで、今朝のみ言葉は、サムエル記からです。サムエルは、サウル王とダビデ王に油を注いだ預言者でした。サムエル記を書いたのは次の記事にあるとおりの三人です。
歴代誌上『29:29 ダビデ王の事績は、初期のことも後期のことも、『先見者サムエルの言葉』『預言者ナタンの言葉』、および『先見者ガドの言葉』に記されている。』
ここで先見者ですが、格上の預言者だと理解してください。神様の言葉を取り次ぐのは預言者です。先見者は、さらに神様が言葉にしていない事も語ります。サムエルは、先見者ですから、神様の言葉を語り、「神様の意思」をも語ったわけです。加えて、サムエルは士師でもありました。士師とは、「裁く人」という意味です。まだ国王がいなかったころ、イスラエルの「裁きと軍事」を担ったのが士師です。神様は、ヨシュアの次の世代にイスラエルを裁く士師を立てたのです。
士師が活躍したのは、カナンの地でペリシテ人(ペリシテジン:古代のパレスチナ人)と争いが絶えなかった時代です。名前が最初に出てくる士師は、女預言者デボラです。そして、最後の士師が先見者サムエルだったわけです。
ところで、士師記を読むと、約束の地カナンに入ったイスラエルは、国を持ちませんでした。先住民であるペリシテ人の国に入り込んで、住んでいたからです。イスラエルは、言ってみれば移民です。そしてペリシテは国です。ペリシテの国と比べると、軍事的にも経済的にもイスラエル民族は弱者でした。ですから、イスラエルの民は、国を治める強い王様を求めます。そこで、神様はイスラエル民族の願いを聞いて、王様を立てることを認めます。そして、初代のサウル王を選び、その後ダビデ(在位:前1000年 - 前961年頃)を選びました。そのときのサムエルの言葉です。
サム上『15:26 サムエルはサウルに言った。「あなたと一緒に帰ることはできない。あなたが主の言葉を退けたから、主はあなたをイスラエルの王位から退けられたのだ。」』
神様は、イスラエルを導くために、神様に従わないサウル王を退け、ダビデを王様に選びます。こうして、「イスラエルを導く神様と、その僕ダビデの物語」が始まりました。
そして、ダビデの血筋は、特別な意味を持つようになります。ダビデは、ベツレヘムの出身で、エッサイの子であります。そのエッサイの子孫からメシヤ(救い主)が生まれることが預言されたのです。
イザヤ『11:1 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち11:2 その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。~11:10 その日が来れば/エッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。』
ミカ『5:1 エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。』
余談ですが、これらの聖書の記事は、ダビデの時代を境にして、何年の出来事かが、推測できています。例えば、ダビデが預言者サムエルから油を注がれ(サム上16:1)たのがBC1024年であり、ダビデの最後(歴代誌29:28)がBC970年です。
さて、今日の記事の背景を知っておきたいと思います。ダビデは、サウル王に仕えた人で、多くの戦いで功績をあげました。一方で、それがサウル王の妬みの原因となりました。ついには、サウル王から命を狙われることになります。やむなく、ダビデは逃げます。そして、アドラムの洞窟を隠れ家として、サウル王の攻撃を防いでいました。そんな内戦のさなかに、ペリシテは、サウル王および、その息子イシュ・ボシェト王を、倒しました。すると、イスラエルの長老たちは、ユダの王であるダビデをイスラエル全体の王にしたのです。(サム下5:3)これは、内戦の終結を意味します。そして、それを知ったペリシテは、ダビデの体制が整う前に、攻めてきたのです。
今日の記事にはダビデの勇士たちの活躍が記されています。このときの戦いの経緯が、もう一か所の聖書箇所 サムエル下5:17-21(並行記事 歴代上14:8-12)にあります。
このときペリシテ人は、ユダの王であるダビデがイスラエルの王にもなったことを知ります。レファイムという場所は、エルサレム北東約5kmの細長い盆地であります。たぶん、ギブアの街(エルサレムの北5km)にあるサウル王の拠点を攻めていた部隊だと思われます。ペリシテ人は、そこからベツレヘムの村まで前哨部隊を出しました。ベツレヘムは、ダビデの出身地であり、ユダの最前線です。そこがペリシテに奪われてしまったのです。ダビデはと言うと、そのときイスラエル王となる油注ぎの儀式のためにヘブロンにいましたから(サム下5:3)、アドラムの洞窟に急ぎ戻って体制を整えます。そこは、エルサレムの南約10kmのベツレヘムから西南西約20kmにある天然の要害です。アドラムは、主要な街道を見下ろせる荒れ野で、あちこちに洞窟があります(サム上23:14)。ダビデが詩編で歌った「救いの岩」「砦の塔」「逃れ場」「隠れ家」は、この要害の事なのでしょう。アドラムの洞窟はサウルの攻撃を防ぐダビデの隠れ家だったのです。ペリシテ人は、早速レファイムの本隊から前哨部隊を出してベツレヘムを奪います。ダビデ王も、戦いの準備のために、人を集めました。そのダビデの隠れ家に3人の勇士も集まります。そして、その3人にダビデは言います。彼らは、30人いる護衛兵の長のうちの3人です。つまり、ダビデは自分の部隊の1/10に対してこう要求をします。
『ベツレヘムの城門の傍らにある、あの井戸の水を飲ませてくれる者があればよいのに』
ダビデのこの要求は、少なくとも敵に奪われたベツレヘムの城門を突破しなければ、達成できません。ですから、この3人の隊長にとっては、「井戸の水を飲ませてくれ」との要求は、「ペリシテ人を打ち負かし、ベツレヘムを取り返しなさい」との命令に聞こえるわけです。ベツレヘムまでは20kmありますから、軍隊でも、移動だけで丸一日かかります。つまり、一緒にダビデが出発しなかったので、この3人の隊長を援護はできないのです。それは、奇襲に失敗したら、彼らを見殺しにすることを意味します。そんな要求に対して、ダビデの3人の勇士は忠実に応えようとします。彼らは主君の言葉のために、命を顧みずに出発します。そして、ペリシテ人の防御や城壁を突破して、ダビデのために水を汲んで来たのです。3人の勇士は、その水をダビデに差し出します。
ダビデは差し出された水を見て、自分のために命をかけてこの水を汲んでくれた彼らの忠誠心を思いました。3勇士は、ダビデの心を汲んで戦いました。そして今、ダビデは気がついたのです。神様に対してもこの3人の勇士に対しても忠実ではなかった と。ダビデは、神様に聞きながら、その通りにはしませんでした。それでも神様は、ダビデへの約束を守ります。そして、3勇士はダビデの要求を受け入れ、戦ったのです。そこに、ダビデは気づかされたのです。
ダビデは、この水を神様に捧げてこう言います。
「主よ、わたしはこのようなことを決してすべきではありません。これは命をかけて行った者たちの血そのものです。」
ダビデは、部下の血にも等しい「尊い水」を、飲んで満足しようとした自分自身を恥じたのです。確かに犠牲を強いてしまいました。しかし、ダビデには、もっと恥ずべきことがありました。それは、ベツレヘムに3勇士を出すときに、神様に聞いていたことです。
『5:19 ダビデは主に託宣を求めた。「ペリシテ人に向かって攻め上るべきでしょうか。彼らをこの手にお渡しくださるでしょうか。」主はダビデに答えられた。「攻め上れ。必ずペリシテ人をあなたの手に渡す。」』
ダビデは、神様のこの勝利の約束を受けていながら、部下たちの勇敢さと忠誠心によって、勝利を勝ち取ろうとしたのです。神様に頼ったのではなかった。この時戦ったのは、神様とダビデの勇士たちだったのです。その時ダビデは、安全なところに残って、攻め上りませんでした。・・・
本来は、ダビデ自身が命を捧げて戦うべきです。また、神様も攻め上るように答えています。しかし実際に命を捧げたのは勇士たちであり、ペリシテ人を3勇士に渡したのは神様でした。ダビデは、少数の部下たちだけに危険を犯させてしまった。この姿を恥じて、「主よ、わたしはこのようなことを決してすべきではありません。これは命をかけて行った者たちの血そのものです。」と言います。それは、悔い改めたダビデの証しでした。このダビデの証しは、私たちの十字架の証しと似ています。ダビデの勇士たちは、ダビデの罪のために犠牲になりました。ダビデから見たら、犠牲になった勇士たちは、私たちの罪を十字架で背負ったイエス様と同じように、ダビデを救い、命を与えたのです。そして、ダビデを救った勇士たちを導いたのは神様です。神様が勝利を導いたのです。このとき、ダビデは罪を犯しました。安全なところにいて、攻め上らなかったのです。それでも神様は約束を守りました。
ダビデはこのような忠実な勇士たちに、恵まれました。サムエル記下23章の最後にその名簿があります。注目したいのは、その名簿の最後に、ヘト人(じん)ウリヤがいることです。ダビデは、このヘト人ウリヤに対しても、罪を犯しました。ウリヤの妻との不倫と、ウリヤを戦死させた罪です。神様に忠実だったダビデでさえ、こんなにも大きな罪を犯したのです。ダビデ王とはいえ、所詮は罪人でしかありません。しかし、これだけは言えます。ダビデは失敗したことに気づかされる度に、神様の前で悔い改めました。そして、神様はダビデの生涯を通して彼を愛し、導き続けたのです。ダビデの栄光の生涯は、ダビデの信仰と罪への悔い改めがもたらしたのです。ダビデが、その罪の度に悔い改めて神様に赦され、そして用いられたことは、功(いさお)のない私たちにとって、心にとどめたい大きな希望であります。