2025年 5月 4日 主日礼拝
『み言葉の中にある喜び』
聖書 詩編119:17-24
今日の聖書の箇所は、「聖書の中の聖書」と呼ばれている詩編119篇です。この119篇は、すべてが8節からなる歌で構成されています。最初の節にテーマがあって、それに対しての応答が7節続きます。このように、詩編119篇では、22のヘブル語のアルファベット順に、同じ文字ではじまる8節の歌で、神様の教えや、祈りを歌っているのです。
ヘブル語のアルファベットは、アレフ、ベト、ギメルと続きますが、ギリシャ語のα、β、γ、英語のa、b、gに相当します。今日の聖書の箇所は アルファベットgの 8つの歌です。
ここでの「あなた」は神様。そして「わたし」は、これを歌っている人です。そして「わたし」には、前提条件があります。それは、
『119:19 この地では宿り人にすぎないわたし~』であります。ですから、天にいます父なる神様に対して、いま、地上と言う仮住まいにいて、悩んでいる私がいます。そして、私は祈ります。「神様から与えられたみ言葉を、律法、掟として守りますから、どうか導いてください」と。
さて、地上にあるもの、目に見えるものに惑わされてしまう私たちは、霊的な神様のみ言葉が見えなくなってしまうことがあります。だから、そうならないように、み言葉のなかに希望を見出したいと、私たちは祈ります。私たちはこの地上で生きています。しかし、生まれ変わるときには天の国に住みますから、その時のために今も過ごしたいのです。だから、地上にいる間であっても、神様の戒めを守り、天の国を待ち望むのです。
『119:20 あなたの裁きを望み続け/わたしの魂はやつれ果てました。』
私たちは、イエス様の再臨を待っています。その時に、神様の裁きを受けることを望んでいますが、すでに私の魂はやつれ果てました。戒めを固く守りながら、その裁きの時を待ち続けるのがつらいのです。
『119:24 あなたの定めはわたしの楽しみです。わたしに良い考えを与えてくれます。』
この地上における生活で、私たちに寄り添ってくれるのは、神様のみ言葉です。私たちは聖書を読むことで、神様のみ言葉を受け取ります。ですから、聖書を読むにときには、読書とは違った意味のこころがけが必要です。聖書に向かう態度、姿勢として大事な点は三つあります。そのことを受け止めながら、聖書を読みたいと思います。
聖書を読む時のお勧めする一つ目は「聖霊を求める」二つ目は「黙想をもって待つ」そして三つ目が「祈って実行する」です。
(1.聖霊を求める) 聖書を読む態度、姿勢で一番大切だと思うのは「祈り」です。聖書は祈って開くもの、祈りながら読み、祈りをもって閉じるものです。教会で聖書を読み、学ぶときには、かならず祈りをもってはじめ、祈りをもって終わります。自分で聖書を読むときも、祈ってください。聖書を読む前の祈りですが、今日の聖書にはこんな祈りがあります。
『119:18 わたしの目の覆いを払ってください/あなたの律法の驚くべき力に/わたしは目を注ぎます。』
この祈りは、聖書を読む前の祈りとしてとてもふさわしいものです。なぜならば、「私の目の覆いを払ってください。」とは、「自分の力では神様のみ言葉を読み取ることができません。」との告白だからです。自分だけでは読み取ることができない。だから、「神様助てください」と祈るのです。
神様は、いくつもの方法で、私たちにご自身のことを示します。それを「啓示」と言います。「啓示」とは、人間の目には隠されていたものが、神様によって示されるものです。神様の啓示の第一は、神様が創造されたこの世界を通して示された、ご自分の存在、その知恵と力です。(これを「一般啓示」と言います。)しかし、多くの人はこの世界が神様によって作られたことを知りません。そこで、神様はもうひとつの啓示、み言葉による啓示をくださいました。それが聖書(特別啓示の一つ)です。それは神様の大きく、深いみこころを言い表しています。ですから、人では知り得ないことまでを、私たちは聖書によって知り得るのです。
しかし、聖書がどんなに素晴らしくても、私たちの心の目が覆われていては神様と神様のみわざ、また、神様のみこころを知ることはできません。目が覆われて景色が見えない人には、まず、その覆いを取ることが必要です。同じように、私たちも霊的な心の覆いをとることが必要です。そして、それを仲立ちするのが聖霊です。
聖書のなかで神様が与えたみ言葉を 聞いて、学ぶ準備が必要です。それは、聖霊によって心の覆い、霊の覆い、信仰の覆いを取り除いてくださいとの祈りなのです。
例えば、パウロはこのように祈っています。
エフェソ『1:18 心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。』
この祈りは、パウロが自分の知恵や知識に頼って聖書を理解しようとするのでなく、聖霊の働きに頼って神様に聞こうとしている、謙虚な祈りです。もしその真逆で、私たちが「神様のみこころを知っている」、などと思って祈らないのなら、たぶんそれは驕りでしかありません。人間の限界を知るならば、聖書に向かうときに「私を悟らせてください」と祈るしかありません。その祈りがなければ、神様のみこころを知ることは、ありえないのです。
(2.黙想をもって待つ) 神様は、祈りに答えてくださる方です。私たちがまごころから「わたしの目を開いてください」と祈って、聖書に向かうならば、必ず私たちに御心を示してくださいます。しかし、すぐにというわけではありません。私たちの多くはせっかちです。祈ったらすぐに応えが返ってくることを期待します。しかし、神様の応えは、あなたの思う通りにすぐに返ってくるわけではないのです。そしてさらに、わたしたちの心の覆いが取れるまでは、「神様が沈黙している」と勘違いしているのです。私たちの心の覆いは、神様の応えを遮ります。だから、心の覆いが取れないと、まわりの景色が見えません。景色が見えない私たちは、がっかりしたり、さらにかたくなになって心に厚い覆いをかけることでしょう。それでも、祈るのです。・・・なぜならば、神様は、私たちの祈りを聞いておられるからです。
イエス様は、神様は祈りに応える方です。そして、このように教えました。
マタイ『7:8 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。7:9 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。』
私たちは、パンを求める子供です。そして、とってもおいしそうなパンを食べたいと神様にお願いします。それに対して、神様は、子供の大好きなパンではなく、栄養のある安全なパンを与えることでしょう。神様は決して、求められているものを与えるのではなくて、益となる良いものを与えるのです。それは、まるで親のようにです。ですから、私たちは心の覆いを取って、神様のみ旨をそのままに受けとっていきたいのです。そして安心していてください。神様は必ず応えてくださいます。だから、心の覆いを取り去って、黙想して待ちましょう。
(3.信仰によって実行する) 聖書を読むときには、「聖霊を求めて祈る」 によってはじめ、「黙想のうちに神様の応えを聞く」ということをお話ししました。最後に「信仰によって実行する」ことです。私たちが聖書を読み、学ぶのは、最終的には聖書に書かれている神様のみ旨を実行するためです。しかし、簡単には、み言葉を実行することはできません。
ヤコブ『1:22 御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。~1:25 しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。』
み言葉を聞いて、行う。そのとき、その機会が来るまで、み言葉を心の中に温めていてこそ、行うことができる。それがヤコブの教えです。
私たちは聖書の教えるすべてのことを完全に守り、行うことはできないでしょう。しかし、大切なことは神様の言葉を守り行いたいという決意をもって聖書を読むことです。そのとき、神様は、み言葉を守り行う力を与えてくださるのです。
私たちも聖書に向き合う祈りを、御言葉を聞く祈りを、そしてそれを実行する祈りをも、与えられるよう祈っていきたいと思います。そうするとき、私たちは「み言葉の中にある喜び」に満たされます。熱心に祈り、聖書を読む人には、その心の中に温めたみ言葉が宝となるのです。人は肉体だけで生きてるのではありません。私たちの「たましい」は、祈りと黙想とをもって受け取った御言葉を糧に生きていて、御言葉を行うのです。この御言葉を求める信仰を土台にして、神様によって生かされてまいりましょう。