2024年 8月 4日 主日礼拝
『イエス・キリストについての証』
聖書 ヨハネの手紙一 5:1-12
今日は、ヨハネの手紙一からみ言葉を取り次ぎます。この手紙は、すべてのキリスト者に向けての問いかけであります。今日の箇所では、「信仰によって世に打ち勝つこと」、「イエス様についての証」がテーマとなっています。その中心となるのが5節で、イエス様への強い信仰をヨハネが宣言しています。(新共同訳の表題では6節からが証ですが、実質的に1節からが証です。)
『5:5 だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。』
ヨハネのメッセージは、全てのキリスト教会に向けています。ですから、キリストを信仰する者に向けた宣言と言えます。決して、一般の人に向けた「この世を支配」しようとの話ではありませんので、少し確認してみたいと思います。ここで、世と訳されているのは、ギリシャ語のコスモス(κόσμος)です。意味は、秩序あるもの、宇宙、地球、地球の住民、地上の財産などですが、ここでは、地上の財産のことではありません。そして、神の子です。神の子とはメシアのことを指します。たとえば、
ヨハネ『11:27 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」』
このように、当時、「神の子とはメシアである」と広く知られていました。その証拠に新約聖書には、同じように読める所が他に4箇所あります。(マタイ16:16,26:63、ルカ4:41,ヨハネ23:31) つまり、ヨハネは「イエス様は、救い主である」と 証しをしたのであります。メシアとは救い主の事で、ギリシャ語ではキリストであります。イエス様を神の子キリストであると信じている私たちは、秩序あるもの すなわち神様の前で勝利を収めるのであります。そして、それはこの地上の地位や宝を得ると言う意味ではなく、神様のもとでの勝利を得るのです。一つ目の天の意味は空 そしてその下には地上の世界があります。二つめの天の意味は宇宙、天地創造の時にできたこの世の秩序は第二の天の下にあります。そして、三つ目の天の意味は 神の国であります。神の国の下での勝利すなわち神様の祝福を受けるのは、キリストであるイエス様を信じる私たちなのであります。
ところで、イエス様への信仰は、私たち人間が選びとったものでしょうか?。そもそも 信仰は、神様の選びから始まっています。神様は、全ての人を信仰に導こうとしていますが、それぞれの時があります。それぞれの時に、神様は招いてくださって、イエス様への信仰が与えられるのです。そして、神様は今も多くの人々を招こうとしています。このように、神様の招きによって、イエス様への信仰が与えられ、その結果信仰を持った一人一人が神様の子供として神様につながります。神様は、イエス様を信じる者を神の子としました。ですから、どの子供たちも皆、父なる神様を愛するように、神様の他の「子供たち」を兄弟姉妹として愛するのです。そういう意味で、神様を愛することは、より日常的で、具体的なものとなります。神様を愛すると言うことは、神様の子供たちである兄弟姉妹つまり「信徒」を愛することになるからです。また、神様の戒めも同様であります。戒めを守る背後にあるのは、イエス様への信仰と、兄弟姉妹への愛と、今、神様の招こうとする人々への愛です。この愛のすべては、神様からの贈り物です。神様からの贈り物である愛は、神様の招きから始まって、私たちに信仰をもたらし、この世に勝利をもたらします。この世とは、地上の地位や財産のことではありません。地上のものは、一時的なものであり、永遠ではないからです。私たちが与る勝利は、この地上で与えられるものではなく、イエス様を救い主だと 信じることによって、神の国で与えられるのです。
さて、信仰は人間が自分で選び取るものではないと先ほど言いました。同様に、信仰は自らの力で手に入れるものではありません。それなのに、私たちは、自分の知識と洞察力、そして研究熱心なことで、信仰を手に入れようと あがいてしまいます。その努力は、決して無駄ではありませんが、その前にあるのが神様の招きです。なぜなら、信仰は神様からの贈り物だからです。親が、子供を育てるように、また、親が願っているからこそ、子供がそれに答えるように、全ては親である神様から始まっているのです。ですから、その順番を忘れないようにしましょう。例えば、神様が招いている人に、あなたが会ったとします。そんなときは、まず先に神様が招いていることに感謝しましょう。信仰は神様からの贈り物ですから、神様の導きに委ねることです。そんなときに、もし、自分で信仰を選び取ったと思う人は、どうするでしょうか? たぶんその人は、信仰を求めている人に対しても自分で信仰を選び取ってほしいと、言うでしょう。しかし、信仰は神様の贈り物でありますから、人の努力や判断の成果ではありません。信仰に招いているのは、あくまでも神様です。招かれた私たちは一度へりくだって、自分が罪人であることを受け入れました。そして、バプテスマを受けイエス様に救いを求めたのです。ですから、個人の努力や判断で信仰を選んだのではありません。・・・むしろ残念なことに、信仰を選び取ろうとすることは、人の思いである事実です。人の思いより前に。まずは、神様のみ旨に聞いてください。そして、神様に委ねることです。
信仰は、人の努力の結果ではなく、神様からの賜物であります。また、その賜物によって、何の功績もない私たちは永遠の命を頂きました。この事を受け入れているからこそ、神様の前では、謙虚になれます。しかし、多少謙虚になったとしても、私たちは自分を過信していて、傲慢なのが実態です。だから、完全には謙虚になりきれない私たちは、祈るしかないですね。「どうか、この傲慢な罪人である私たちを赦してください」と・・・
そして続きがあります。「全てを神様に押し付けてはいけない」と思ってしまう私たちは、何かをしないと気が済まないないのです。でも、できることは、聖書を読む事、祈る事、礼拝に出席する事、献金する事、証(伝道)をする事くらいしかありません。そして、それ以上の働きをしたいならば、十分な注意が必要です。もし、自分の力を信じて、自分の力で人も神様も動かそうとしている。そんな思いは、傲慢です。ですから、平凡なこの五つの事で神様にお手伝いする所から始めましょう。そうすれば全ては、神様が、計画し、備えてくださるのです。・・・でも、少し不安ですよね。しかし、不安だからとの人の思いによって動かされずに、神様のみ旨に聞きましょう。だから、普通のことを、やり続けることです。すなわち、聖書を読む事、祈る事、礼拝に出席する事、献金する事、証(伝道)をする事が大切なのです。神様は、この五つのお手伝いを通して私たちに聖霊を降り注ぎ、恵みを下さるのです。
ところで、「主にある兄弟姉妹」と言う言葉が、良く使われます。今日の聖書の箇所では、特に明確にその意図が示されています。まず、私たちイエス様を信じる者には、神様と言う親がいます。人間の家庭においても、親は自分の子どもを思い、そして献身的に育てます。また、家族が互いに愛し合うことは親の喜びであります。神様の家族でも、同じことが言えます。それとは逆に子ども同士の争いがあれば、その問題に心を痛め解決を図るでしょう。憎しみや復讐心は、まさに神様の家族にあってはならないものです。 しかし、愛し合いなさいとの神様の掟を守るのは、結構大変なのであります。例えば、「神様にではなく自分の力に頼る人」です。その人は不信仰に陥りやすいです。なぜならば、神様の声にではなく、自分の心に聞くからです。
そもそも、イエス様を信仰する者はだれでも、多くの点で不完全であり罪深い存在です。そうでありながらも、神様の下さった信仰によって、自分が罪深いと言う事実に向かい合っているのです。私たちの内部では、自身の本質すなわち「不信仰」 と「イエス様を信じる信仰」が戦っているわけです。この霊的な戦いについては、日常の事を思い出してください。先ほど、5つ挙げました。聖書を読む事、祈る事、礼拝に出席する事、献金する事、証(伝道)をする事これらを、大事にしていきましょう。そして、外見上のことで人と比べたり、数字での比較したりするのは、ふさわしくありません。それぞれ、人には事情がありますから、ことさら数字などに目を向けるのは無意味です。だから、自分の心の中で、戦っているか? そこを、自問してほしいと思います。
ところで、今日のみ言葉には、神様の証があります。
『5:9~神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。』と書かれているからです。その神様の証の部分を挙げますと、この部分です。
『5:11 その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。』
この御子イエス・キリストについての証は、神様御自身の証です。わたしたちはイエス様への信仰に与っているので、永遠の命にも与っているのです。「御子イエス・キリストがすべての人の罪を帳消しにするために、御自身の命を犠牲にした結果、私たちに永遠の命が与えられた」、そのように神様が証ししたのです。
『5:6 この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです。5:7 証しするのは三者で、5:8 “霊”と水と血です。この三者は一致しています。』
「ヨハネの手紙一」が書かれた当時、イエス様が私たちの罪のために、十字架で苦しみを受けて死んだことを 否定する所謂 異端と呼ばれる教えがありました。この異端への対策としてヨハネは、単純かつ強い言葉で神様の証しを示したのです。つまり、「イエス様はまことの神様であり、救い主キリストである。イエス様が、水によるバプテスマを受けた時、そこに聖霊が降った。また、イエス様は、すべての人の罪を贖うための生贄として、御自身の尊い血を十字架で流してくださった。」という証です。神様はその証を、イエス様を信じる者の口を通して、示し続けています。世界中の教会で、今も、そして将来も、続けられます。私たちも、その事に感謝をして、その証しする者の一人としてその働きを担ってまいりましょう。