マタイ20:20-28

命を捧げるために

2024年 3月 17日 主日礼拝

聖書 マタイによる福音書20:20-28       

 今日の聖書の個所は、大変に興味深いというか、人間臭い内容を持っていると思います。マタイでは、ゼべダイの息子たちの母親が、イエス様にお願いするのですが、他の福音書では違っています。マルコ(10:35-45)では、ヤコブとヨハネが直接イエス様にお願いしていますし、ルカ(22:24-27)では、「誰が弟子たちの中で一番偉いか」との二回目の議論のときでありました。この議論は、イエス様の右や左に座りたいとの話ではありませんが、自分が認められたいとの本質は同じであります。もともとのマルコの記事を元に、マタイとルカはそれぞれの視点を加えたのだと思われます。この中で特に、マタイ独自の視点が面白いと思いました。問題の本質は、ルカが記したように、「誰が一番偉いか」に決着をつけようとしたことであります。「自分たちがこれから何をすべきなのか」もわきまえずに、目に見える将来の栄光を望んだわけです。マタイは、その背景を書きました。マルコでは、ヤコブとヨハネを「雷の子ら」(3:17)と呼んでいるように、彼らの性格は少々乱暴であったと思われます。例えば、

ルカ『9:54 弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。』とあります。

そういう性格ですから、イエス様に直談判したのでしょう。しかし、マタイではその兄弟ではなく、母親の強い要求として書かれています。今で言うと、モンスターピュアレントのような感じでしょうか?。ヤコブとヨハネについて、この母親はイエス様にお願いします。

『36:21王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。』

 この母親がやって来てお願いした記事は、マタイにしかありません。マタイには、これを敢えて書いた意図があるのだと思われます。この記事には、みなさんも色々な感想を持ったと思います。これほどにも、息子たちを愛していて、手助けをしたいのだなぁ!と好意的に見る人がいると思います。出しゃばりすぎと言う人もいると思います。また、「恥も外聞もない愚かな姿」と評価する人もいるでしょう。それに、皮肉なことです。この母親の行動が息子たちの評価を下げることに考えが及んでいないのです。ですから、どこか憐れな母親と言えるかもしれません。しかし、善意の行動であることは確かです。この母親の目的は明確でした。息子たちを出世させたい。それだけなのです。その結果、イエス様が、これから十字架にかかって、罪人の贖いのために犠牲になることには、心が向いていないのです。現代のモンスターピュアレンツも同じです。先生の自分の子供に関する評価や、特別な配慮を執拗に訴えるわけですね。そして、主張するばかりで、先生の話を聞き入れません。そういった家族がこのイエス様の群れにいるならば、雰囲気が悪いでしょうし、弟子たちが「誰が一番偉いか?」との議論を誘ってしまうわけです。


 この息子たち、ヤコブとヨハネは、イエス様の最初のころからの弟子であります。イエス様は、この二人とは特別に近い関係だったので、シモン・ペトロと同じように、あだ名を付けていました。「ボアネルゲス」(雷の子ら)、このイエス様の付けたあだ名で、二人がどんな人物か、ある程度想像できます。「雷の子ら」とは、おそらく気性の激しい、雷のような攻撃的な性格だったと思われます。そしてこの兄弟を産み育てた実の「母親」がそこにいます。イエス様はこの母親をどう思い、どう受け止めたのか・・・。私たちであれば、そういったモンスターとは、あまり関わりたくないですね。そして、穏やかにかわすことで、正面から向き合わないと思います。

 さて、マタイはこの場面をどのように理解したのでしょうか? この母親の行動を批判する気は無いようです。また、イエス様も、このヤコブとヨハネの母親をしかりつけることもありませんでした。なぜなら、その愚かしい行動の原因となっているのは、イエス様の役に立ちたいとか、イエス様の側で働きたいとのヤコブとヨハネの願いであるからです。こういう場合、直接害となっている行動を責めるのではなく、認識の不足を補ってあげたうえで、何をすればよかったかを示すのが、大事です。イエス様は、そういう手順で教えたのだ と私は考えます。その、イエス様の指導は合理的でした。組織でも、グループでも、ボタンの掛け違いやトラブルが起こるのは、目標の共有化、現状認識の共有化、今やるべきことの共有化がうまくいっていないときです。そのよう状態であれば、それぞれが別の判断をするわけですから、ちぐはぐになってしまうわけです。そして、個別の間違った行動や、無知や理解不足を責めることは得策ではありません。なぜなら、持っている情報が不適切だと、必ず間違いを起こすからです。また、当然ながら解っていない事は誰もうまくできません。ですから、何を知るべきなのかが不明確であったり、知るべきことを教えていなかったり、あるべきルールが無かった場合にトラブルが起こるものです。そういう理由で、この母親の振る舞いを「非常識、愚か、恥知らず」と批判しても何も改善されないのです。

 実際、イエス様は、そのような冷い叱り方をしませんでした。むしろ、この母親のような思いの人が、まだまだいることに配慮したのだと思います。そういう親たちに、マタイも問題だと感じていたのだと思います。そこでマタイは、この母親を批判することなく、その後のイエス様の配慮を書き残しました。

 まず、イエス様はひれ伏すこの母親に「何が望みか」と聞きました。その母親の願いに、しっかりと耳を傾けようとしているわけです。次に、ヤコブとヨハネにも、それが本気かどうか、確認します。

『このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。』

 そしてさらに、この群れのやるべきことを、示すのです。

『あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、20:27 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。』


 こういう問題が発生したら、すぐ効果の出る対策が必要です。応急対策とよく呼ばれますが、そのためには良く関係者の話を聞いて事実を確かめなければなりません。その結果、弟子たちが特別な席を争っていたことがわかったので、その争いを止める必要があります。ですから、イエス様の「偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい。」とのことばは、応急対策として機能するはずです。

 しかし問題は、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」ことです。ここに酷いボタンの掛け違いがあります。ヤコブとヨハネは、普通に出世したかったのでしょう。将来イエス様の右手と左手を担うような重要なポストを願っていたということです。母親も、その出世を望み、後押しをしています。これは、だれでも思うような事でありますから、とがめだてするようなことでありません。ヤコブとヨハネは、彼らの望みがかなうことで、みんなが幸せになると 思ったことでしょう。そう思うこと自体には罪はありません。しかし、今日の聖書の前の記事を見てください。重大なことをイエス様が弟子たちに話していました。

『20:17 イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。20:18 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、20:19 異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」』

 この話をしたのが、これで三度目でした。イエス様はエルサレムへの道をたどりながら、弟子たちにこれから起こることを予告しましたが、弟子たちは、受け止めきれていなかったのです。


 イエス様の「十字架への道」が始まっていました。イエス様は、ご自身のみ業の仕上げとして、十字架上で苦しむ道を目指していたのです。目的は、人々の救いです。ご自身が犠牲になりそして復活することで、人々の罪を赦し、人々に永遠の命を与えるのです。 イエス様は十字架にかかって死んで、3日目に復活しました。その結果、福音は世界中の人々に広がります。そして、多くの人々がイエス様の生き方に見習って、「皆に仕える者」になろうと努力しています。これは、神様の愛による人々の心の支配です。一方で、力による支配があります。ローマ皇帝をはじめとする権力者は、人の上に立って、命令を下し、力によって、人々をひれ伏させて、富を奪います。そして、この力の支配の世界では争いが起こります。皆が、誰が一番か、誰が二番か、と権力の座を窺っています。当然のように、争いが尽きないわけです。このように、力による支配では平和と安心は来ないのです。

 もし、「皆に仕える者」が、この世を支配したならば、争いは起きにくいかもしれません。でも、支配者だけ「皆に仕える者」で、平和と安心はやって来るのでしょうか? たぶん、それだけでは、平和と安心はもたらされません。なぜなら、私たちが罪深くて、「皆に仕える者」ではないからです。ですから一度、罪から許され、神様の前に悔い改めることが必要だったのです。ところが、弟子たちは、「神の子の権威」を自分たちが使うことしか、考えていません。「皆に仕える者」ではなく、「皆に仕えさせる者」になろうとしていたのです。      

 しかし、イエス様にこれから起きることは、弟子たちが思っていたような神の子の権威を示す事ではありませんでした。すべての人の罪の贖いとして、イエス様は自分の生命を献げるのです。ですから、弟子たちの思いはまったく的外れのものだったのです。イエス様が三度も教えた十字架の予告も、注意深く聞いていません。そして、今自分たちが何をすべきかを考えるべき時なのに、無邪気に「権力争い」をしていたわけです。そこで、イエス様は、弟子たちを諭しながら再び十字架の予告をします。

『20:27 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。20:28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」』

 イエス様は、人々に仕えるために来ました。イエス様のように皆に仕えなさい。そして、イエス様は十字架で死ぬことで、人々の罪を贖うためにやってきました。同じように、弟子たちも皆のために仕えなさい。これは、弟子たちの殉教を含んだ命令だと言えます。イエス様は、「私たちのために命を献げるために来た」と宣言しました。教会の主であるイエス様は、すべての人に仕えます。弱い者、小さなものに寄り添って仕えます。そのイエス様は、皆に仕える生き方をしました。そして行きつく先は、十字架です。皆に仕えることは、究極的には十字架で犠牲になることであります。イエス様は自分の命を献げることで、私たちの罪を贖う。そのためにイエス様はエルサレムに向かうわけです。すべては、神様が私たちを愛してくださっているがゆえです。この、命をも献げる究極の愛に感謝を捧げましょう。