イザヤ書42:1-9

神の選んだ僕


1.傷ついた葦を折ることなく

 ここには弱い人々を励ます神様の慰めがあります。

『傷ついた葦を折ることなく、暗くなっていく灯芯を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする』 水辺にある傷ついた葦を折れば本当に枯れてしまいます。弱り果てている人を死ぬことのないように助け、救うことがここに語られています。

『暗くなってゆく灯芯を消すことなく』

これは、まさしく神様への、わたしたちの信仰の火のことです。神様が消え入りそうな信仰の火を保ち、消さずに保っていてくださるから、私たちの信仰は失われず保たれます。その約束が語られています。「暗くなってゆく灯芯を消すことなく」保つのは、神様の恵みです。その恵みは、み言葉によって与えられます。

 そして、神様はそのみ言葉をもたらすために、使者を遣わしてくださいます。その使者のことを、「わたしの僕」と呼んでいます。神様は、この僕のことを「わたしが支える者」と呼びます。神様に遣わされるこの人物は、神様の救いのために働く僕です。彼は僕に過ぎません。そして、救いのための働きは、神が支えるので、その任務をまっとうできると語っています。「わたしが選び、喜び迎える者を」。この人を、神様選んだというのです。そして、神様が「喜び迎えた」ということだけが語られています。

 1-4節の中に「裁き」という語が3回出てきます。新共同訳聖書は「裁き」と訳していますが、裁判の事を指しているのではありません。法を制定して公示することです。この僕はそのような王的な任務を担う者として神様が立てたのです。しかし、彼のその任務の果たし方は、地上の王の姿と異なっています。

「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない」

彼の方法は、地上の王たちと全く異なります。この僕の裁きは、地上の王たちと全く異なっていました。

 そして、4節において、この僕自身には、その業を成し遂げるまで、消えることも、折れることもないであろうとの約束が与えられています。この僕は傷ついた人々が倒れないようにし、命をもたらす使者としての任務を持ち、暗くなって消えそうな信仰の火を再び燃えたたせ、永遠の命である神の言葉を取り次ぐ任務を持っていました。そして、「島々は彼の教えを待ち望む」。彼が打ち立てる裁きは、「この地」を救いへ導くだけでありません。「島々」(諸国民)にまで及びます。

2.諸国の光として

 5節に、「神は天と地と人類の創造者である」ことが述べられます。創造者としての神様は、「その上に住む人々に息を与え、そこを歩く者に霊を与える」存在として語られています。この表現は、創世記2章の人間の創造物語に見られる記事とよく似ています。人は神様に命の息をあたえられてはじめて生きるものとなるという認識だと言えます。ここでは、「歩く」と表現されています。「霊を与える」神様の働きに支えられてはじめて可能なのです。

 6節で用いられている「呼ぶ」「取る」という相手は、イスラエルの民であると理解するのが最も自然です。ここで呼びかけられ神様に選ばれたのがイスラエルであるならば、イスラエルを選んだのは、天と地の創造者、人類の創造者であるということになります。

『民の契約、諸国の光として あなたを形づくり、あなたを立てた。』

諸国民は、あなた(イスラエル)を通して、神様を知る、ということが意味されています。イスラエルはそのように人類全体の救いの契約を神と結ぶ役割を担っているのです。

 7節には、僕とされたイスラエルに与えられた使命が述べられています。

「見ることのできない目を開き」は、イザヤが召命の時に与えられた、語ることによって人々の「目を暗くする」働きと、反対の使命となります。「捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出す」は、苦難からの解放という意味です。イスラエルは、神様によって、救いの仲介者となるよう定められているということです。いずれにせよ、神はこのような救いの業を明らかにすることによって、ご自身が神であることを明らかにされます。

 8節『わたしは主、これがわたしの名。わたしは栄光をほかの神に渡さずわたしの栄誉を偶像に与えることはしない。』

 神様がほかの誰にも渡さない栄光と栄誉とは、神様がその救いの業によって人々から承認されることです。神様はこのようにしてご自身が神であることを明らかにされます。

『新しいことをわたしは告げよう。それが芽生えてくる前に/わたしはあなたたちにそれを聞かせよう。』神様が救いの言葉として語り、選びの民イスラエルに与えた使命を彼らに語り聞かせるのです。わたしたちにも、島々の民としてその喜びの知らせを聞くことが求められています。