マタイ6:9-15
「主の祈り」でつながれる
(主の祈りの直訳:下線部分)
だから祈る時には、このように祈りなさい。・・・と、主の祈りを教えてくださいました。
【主語は神様です。(「ように」と訳されているところは、私たちの願いではなく、神様の状態を表しています)】
/御名が崇められています。 御国が来ています。
御心が行われるでしょう、/天におけるように地の上にも。
【祈り(命令形)】
わたしたちの日々の糧を今日も与えてください。
わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を
/赦しますので。(交換条件があるので、契約の申し出です)
わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪から救ってください。
1.祈る時には
今日の箇所の前段を読んでみましょう。
マタイ『6:5 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。6:6 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。』
マタイ『6:7 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。6:8 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。』
施しをするときに人前で行う偽善者について、イエス様は真似をしないように教えました。そのあとに、祈ることについても、偽善者の様であってはならないと教えたのです。人に祈るところを見せる必要もなければ、立派な言葉を並べる必要はなく、神様に向きあっての祈りが大事なのだと言うことです。そもそも、神様は私たちの必要は祈る前から知っておられるのですから、どんなに美しい言葉で飾ることもいらなければ、祈りを通じて周りの人々に認められようとすることも必要が無いのです。むしろ、祈ることで称賛を受けるのであれば、それはそれで、その祈りがかなえられているのだから、神様にくどくどと祈っているところを人々に見せたパーフォーマンスの報いは受けていて、神様が介在する前に、既に得られたことになります。
一方で、イエス様は祈るときの一例をお示しになります。くどくどと祈る必要がないのは、神様はその必要を既にご存じだからです。それでも、具体的な「祈り」を一例としてお示しになりました。
2.賛美
主の祈りは、賛美で始まります。(賛美:信仰に基づいて、主をあがめることを賛美と言います)
冒頭の直訳に少し言葉を補うと、次の様になります。
私は御名をあがめます。そして、多くの人々が御名をあがめています。
私は、あなたの国が来ることを信じています。
そして、天ではすでに神様が御心を行われているように、この地でも御心が行われることを信じています。
3.祈り
きわめてシンプルな祈りです。イエス様は、これ以上に多くの言葉を使って祈ることは必要がないと言われました。なぜなら、私たちの多くの心配の中で、本当に心配しなければならないのは、この祈りに挙げられたことしかないからです。食べられること、罪を許していただくこと、そして悪と出会わないこと(出会ってしまったらそこから救い出していただくこと)です。直訳では、言葉の足らないところを補足しますと、次の通りになります。
わたしたちの日々の糧を今日も与えてください。
わたしたちの負い目を赦してください、
/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しますので。
わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪から救ってください。
4.主の祈りとは?
主の祈りは、私たちがどう祈るべきかの模範として示されました。 特に、呪文的な力を連想させるような特別な祈りではありません。でも、「主の祈りを暗唱し祈る」、そして「主の祈りのことばを理解して心から祈る」ことは、良い祈りになるのでしょう。 祈りについては、神様は、私たちが特別なことばや聞こえの良いことばを使うよりも、神様に語り掛け、心から「神様とおしゃべり」することが、望まれておられると言うことを思い出してください。そして、皆と唱和するときには、皆の祈りと合わせて、心を一つにして祈りたいものです。