コリントの信徒への手紙二9:1-8

恵みで満たされる


1.前からの準備

『9:1 聖なる者たちへの奉仕について、これ以上書く必要はありません。』

 「聖なる者たちのへの奉仕」、というのは、エルサレムにいる貧しいクリスチャンたちを援助(直接的にはエルサレム教会への献金をさします。)する奉仕のことです。8章でも、献金についてパウロは話していますが、このことについてさらに趣旨を書き送る必要はない、と言っています。その理由は次に書かれています。

『9:2 わたしはあなたがたの熱意を知っているので、アカイア州では去年から準備ができていると言って、マケドニア州の人々にあなたがたのことを誇りました。あなたがたの熱意は多くの人々を奮い立たせたのです。』

 パウロは、アカイア州での献金活動が熱意を持って行われていることを知っていました。ですから、他の地域に献金をお願いするときも、コリント教会の働きを誇って知らせていたくらいです。この献金は、実はコリントの教会の人たちから始めました。コリントの教会の人たちが、自ら進んで献金をします、そのために今から貯蓄します、と約束して初めました。ですから、この奉仕について彼らには何の説明も必要なかったのです。

 パウロはまだ、コリントへ行こうとしていません。自分が行く前に兄弟たちを送って、コリントの人たちが献金の準備をする時間を取らせるためです。準備をしてもらいたい理由は、「コリントの人たちは、こんなにも惜しみなく自分自身をささげ、また聖徒たちのための奉仕にあずかったのです。」とパウロは話していたからです。たしかに準備が出来なければ、コリントの人たちは、恥ずかしい思いをするでしょう。

 コリントの人々は、最初は人々を祝福したいという思いでいっぱいでした。兄弟の中で困っている人たちがいることを知ると、自分たちから喜んで、助けてあげたいと願うようになっていたのです。けれども、その献金プログラムも途絶えてしまいました。そこでパウロは、この中途半端になっているプロジェクトを再開させて、自分が来るときまでには完了させてほしいと願ったのです。

2.神様の恵みで満たされる

 『9:6 つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。』 

 種を蒔く時、まばらに蒔くこともできるし、たくさん蒔くこともできます。まばらに蒔けば、まばらに育った穂を収穫することになります。また、豊かに蒔けば穂が豊かに実ります。ですから、「与えれば豊かになり、与えないで自分のものにすれば貧しくなる」のです。私たちは、逆に考えるのではないでしょうか?「与えれば乏しくなり、与えないで自分のところに入れれば豊かになる」、と。そこに貪欲という肉の欲が働きます。分け与えることをひどく惜しむようになるのです。しかし、私たちは、豊かに蒔く者は豊かに刈り取るという真理を信仰をもって受け取らなければいけません。

『9:7 各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。』

 この言葉は聖書が指し示す真理です。ささげることは、自発的でなければいけないのです。神様は何か事欠くことはありません。また、私たちがささげなければいけない義務はありません。神様は私たちのささげものを必要としません。しかし、私たちのために、神様はささげものを喜んでお受け取りになるのです。私たちが自分のものを自ら進んで神にささげることによって、初めて神への愛を示すことができます。しかし、自発的にささげるという事はなかなか身に付かないのです。見返りがあるからとか、「ささげなさい」、と言われたから、強制されることを良しとしていないでしょうか?だから、「献金は自由です」とすれば、何もささげなくなってしまいます。

『9:8 神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。』

 神様は恵みを、私たちに満ちあふれさせることができます。私たちが何もその恵みにお返しをすることができないのを知りながら、すべてのものをキリストによって施してくださいます。それが神様の恵みです。ですから、神様からの好意を得るために、私たちは努力もする必要はありません。ただ、神様の恵みを贈り物として受け取るだけです。神様を喜ばせるために、私たちは何一つもできないのです。この一方的で絶大な神様の恵みにふれるときに初めて、私たちはただ神様に感謝して、自分自身を神様におささげしようと願うのです。

 ところでパウロがここで、神様がいかに無尽蔵にその富を持っておられるかをよく表現しています。一方で私たちは、分け与えるよりも、自分の懐を肥やすことを優先してしまい、かえって持っている物を減らしてしまいます。そんな愚かな私たちに神様は、私たちをすべてのことに満たすのです。それは私たちが私腹を肥やすためではなく、すべての良いわざにあふれるようにするためです。そして、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えてくださる方なのです。ですから、神様の恵みへの応答として、私たちは惜しみなく分け与えることができるのです。