ローマ1:8-17

福音によって生きる

 

 パウロは、ローマの教会の活躍を知り、ローマを訪問する機会をうかがっていました。そして、パウロはローマに到着したときに、どのような方針を取るつもりなのか、具体的に書きます。


1.パウロの執り成し

 パウロは、ローマの教会の評判について、神様に感謝を表します。ローマは大都市であるため、ローマの教会の働きは、良く知れ渡っていました。パウロは、 ローマ教会のために執り成しの祈りをし、自分自身がローマ教会への宣教に派遣されるように希望します。さて、この執り成しの祈りは、長い期間続いていたのですが、執り成しとは言えない部分もありました。多くの場合、執り成しの祈りは他の人々を神様の配慮に委ねるだけです。パウロは、ローマの教会のとりなしに加えて、そこでの自分の役割について祈っています。そこにはパウロの犠牲が必要。つまり、ローマでパウロが宣教することが必要不可欠と考えたからです。パウロが使徒として、「霊的賜物」を伝えるためにローマまで旅をする。それが許されていないので、パウロは神様に祈りました。


『1:12 あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。1』

  パウロは、ローマを訪問することで、励まし合えることも期待しています。特別な賜物を持つ使徒でさえ、その聖なる交わりによる恵みを期待したわけです。


2.妨げ

 パウロは、ローマへの宣教を、長い間願っていましたが、これまで妨げられていたことを明らかにします。『1:13 兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。』

 何が妨げたのかは、パウロは書いていませんが、長い間ローマで異邦人への伝道をしたいと願っていたことは、わかります。それをローマの教会に伝えることは、異邦人への伝道者として受け入れてもらうためには必要なことです。(第3回伝道旅行の時コリントでこの手紙を書いているので、エフェソかコリントの教会で引き止められていたと思われます)

3.負い目

『1:14 わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。』

 パウロは、自分の負い目について示しています。ローマにいるキリスト教徒にギリシャ語で手紙を書いたとき、相手を「ギリシャ人」という扱いで、「未開の人」という用語には含めていません。また、パウロは宣教する相手を特定の階級に絞ることはしませんでした。「哲学者」と同様に「無知な者」もそのまま受け入れました。キリストを通してすべての人に福音を届ける責任をパウロは感じていたのです。


4.福音を宣べ伝える

 福音とは、良い知らせの事です。英語ではGospel。イエス・キリストの誕生と十字架での死、そして復活の出来事によって、イエス様を信じる者が救われるとの 良い知らせです。

『1:15 それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。』

ここで私たちは気づかなければなりません。「ローマには、福音が告げ知らされていない」とパウロは認識していますし、「それを告げ知らせるのは、パウロ自身でなければならない」との思いが読み取れます。そして、告げ知らせる方法は、キリスト教で始められた礼拝での説教です。当時の礼拝では、パウロの書簡も読まれたようですが、やはり、イエス様と出会ったパウロが霊的に受け取った福音を、説教の形で告げ知らせるのが良いと考えたのでしょう。事実、他の人をローマの働きのために推薦するなどは想定しているようには、この手紙から読み取ることが出来ません。

 

  説教の主題は、キリストの福音です。その良い知らせとは、神様は、私たちの罪のために私たちを怒っていても、キリストのために、まるで分断されていなかったかのように、私たちを神様の恵と交わりの中に迎え入れる、というものです。これこそ、私たち罪人が必要としているものです。また、ローマ人にも、ギリシャ人にも、未開の人にも必要とされます。福音は、全人類に向けたメッセージだからです。実際に、ユダヤ人もギリシャ人も、ただ信じることによって救いを経験したのです。

  この福音は、神様の義を示したものです。福音は、約束だけではなく、裁きでもあるのです。それは、イエス様が全ての罪を十字架に負い、苦しんだゆえに、神様は罪人を義と宣告したことを指します。これは、赦しの宣告であり、交わりへの招待でもあるのです。神様は、私たちの不完全な過去を葬り去り、直ちに好意的に受け入れると宣告したのであります。この福音を受け入れることができるのは、もちろん、信仰です。神様は正義であり、イエス様を信じる者を義とすることができるのです。

  このようにして、義とされた罪人は、その信仰によって生かされるのです。私たちは、神様から滅ぼされることなく、神様の憐れみによって永遠の命に至るのです。旧約では、神様の掟を守らなかったアダムによって、死と産みの苦しみが人に与えられました。(掟を守っていたなら、永遠の命があった)新約のもとでは、神様が義としてくれることによって永遠の命が与えられます。神様が罪びとを義とされるのは、イエス様への信仰によります。