ルカ22:14-23

 最後の晩餐

主の晩餐:再現した主の晩餐です。

当時は、左ひじをテーブルにつけて、もたれかかった姿勢で飲み食いします。

 

1.過ぎ越 

 ◆過越祭(すぎこしさい) ユダヤ教三大祭りの一つで,イスラエルの民が神によってエジプトから救い出されたことを祝う祭り。エジプト人の長子と家畜の初子を滅ぼした神の使いが,イスラエル人の家を「過ぎ越し」たことに基づいた名称(出 12:23-27)。ニサンの月の14日(太陽暦では3月末から4月初めごろ)に小羊を屠って焼き,種なしパンとともに食して祝った。イスラエル信仰の根源をなすエジプト脱出を祝うので,この祭りを忠実に祝うよう聖書記者は強調している(出 12:24,王下 23:21,エズ 6:19-22)。キリストも受難の前夜これを祝われた(ルカ 22:16)。初代教会は,キリスト自身をこの犠牲の小羊と見なし(1コリ 5:7),神の民の死から生命への過越を祝った。(新共同訳聖書の解説より)

 イエス様は、年一回の過ぎ越しの祭り(金曜の日没にはじまる)で、モーセがエジプトからイスラエルの民を救い出した時にちなんで、食事をしました。ただし、イエス様の使っていたカレンダーは、大祭司の使っていたカレンダーとは異なり、一日早かったようです。(ヨハネ18:28 イエス様が捕まった時、イエス様は過ぎ越しの食事をしましたが、大祭司らは、まだ過ぎ越しを迎えていません)この違いは、同じ太陰暦でもエジプトで使われていた暦は、太陽歴での補正がはいっていて、月ごとの季節感が失われない様にしていたためです。この暦は、バプテスマのヨハネが所属していたと考えられるエッセネ派が使っていたようです。過ぎ越しの食事は、種入れぬパンと苦菜(多くの家庭ではホースラデッシュを使う)を食べ、出エジプトの災難を過ぎ越したことを記念します。イエス様の言われる過ぎ越しとは、十字架での受難を指しています。そして、パンはイエス様の肉を、ぶどう酒は十字架で流されたイエス様の血として、受け取り、食してイエス様の受難を記念するわけです。そして、パンと杯は、新しい契約を象徴します。

 こうして、過ぎ越しの食事は、キリスト教の主の晩餐として金曜の夜ではなく、日曜の昼に行われるようになります。「パン裂き」として使徒言行録(2:42,2:46,20:7,20:11,27:35)にありますように、すでにパウロの時代には、パン裂きのために集まる習慣があったようです。

2.新しい契約

 新しい契約とイエス様は言われました。つまり、古い契約があるわけです。それは、モーセを介して神様がイスラエルの民と結んだ契約であります。2枚の石板に刻まれた十戒のことです。モーセは、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のモーセ五書を書いたとされ、このモーセ五書を律法と呼びます。律法は、文字通り神様からの戒めと命令を意味します。この律法に従って、イスラエルの民は生活すると約束をしたわけです。しかし、イスラエルの民は、神様に背き、罪を犯し続けました。そのイスラエルの民の罪を赦すために、そして全世界の人々の罪を赦し、永遠の命を与えるため、イエス様は私たちと新しい契約を結ぼうとしているのです。その契約は、イエス様を信じて告白する事で結ばれるのです。

3.誓い

 『22:18 言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」』

 これは、ナジル人の誓いと同じように、課題を克服するまでの間の不自由を宣言する者です。成就したときに、その感謝を神様にささげ、その不自由を解くことになります。


◆ナジル人(ナジルびと) 特別な誓願によって「神にささげられ,聖別された人」の意。その誓願の継続中は,酒を断ち,頭髪を刈らず,死体に触れなかった(民 6:1-21)。(新共同訳聖書解説 一部)

 実際イエス様は、十字架で息耐える直前に、ローマ兵が用意した酸いぶどう酒(ワインビネガー)を飲まされようとします。これは、気付け用の意味ですが、イエス様はこの酸いぶどう酒を受け取りませんでした。

4.裏切り

 食卓に手を置いているのは、弟子たち全員です。そのうちの一人が裏切るとイエス様は予告しました。しかし、実際イエス様が捕まるときには、全員が逃げてしまい、十字架の死にも、墓へ遺体を納めるときも立ち会わなかったのです。ですから、一人だけが裏切ったというのは、正確ではありません。十二人が裏切って、一人が自殺し、そして十一人が復活したイエス様を見て、イエス様を信じ、伝道のために立てられたのです。