マルコ9:30-37

すべてのから学ぶ

2021年 7月 26日 主日礼拝

すべての人から学ぶ

聖書 マルコによる福音書 9:30-37           

 9月に入りました。9月は、日本バプテスト連盟の教会学校月間です。礼拝の前や後に行われる教会学校への参加のお勧めをする月なので、教会によっては教会学校のクラスごとの賛美、証しなどが行われます。

そもそも教会学校とは、どういうものなのでしょうか?ネット(wikipedia)に書かれていることを要約しますと以下の通りです。 「1780年、イギリスのロバート・レイクスが個人的に始めた教育が起源です。カトリックなどでは、日曜学校とも呼ばれます。バプテストなど一部の教派では子供向けでだけではなく、成人に対しても行なわれています。児童向けの内容は、聖書や教会に関係のある絵や工作を作る、賛美歌を歌う、子供用に書き直した聖書の物語を聞くなどです。中学生以上を対象とするものについては、聖書を使って短い説教や証をします。」

これを読みますと、一般の教会員や子供たちが聖書を学ぶようになったのは、240年ほど前からであり、あまり歴史は無いことがわかります。また、学校という言葉が使われ続けたことで、先生からの教えによって、生徒が成長することを期待すると言った形式が定着したようです。ところが、学校型の教育はキリスト教にはふさわしくないとも言われています。

 

デューク大学神学部のジョン・ウェスタ―ホフ博士が1979年に書いた「子どもの信仰と教会」(新教出版社)には、このことについて触れられています。

 

「キリスト者であるということは、私が他に何を分かち得るか、を問う事であって、相手に何かを知らせたり、相手がどうなるかを期待することではない。すなわち、自分の考え方や生き方を分ち与えるとともに、いつでも(たといそれが子どもであっても)相手から学ぶと言う、開かれた態度をくずさないことが大事である。しかし、学校型の教育に優位性を置くと、方向は全く逆となり、結果は正反対になる。したがって、やはり事柄を根本から問い直さなくてはならない。教会において、いわゆる学校型の教育は必要なのか、それとも、キリスト者として他と共に生きるということ、それこそがすでに本来教育的な出来事ではないか、と」

 

このように、ウェスタ―ホフ博士は、教室で先生が生徒に教えるという学校型の教育に疑問を持っているわけです。

日本バプテスト連盟では、宣教部の教会教育室が中心となって、教会学校の教案や研修プログラムの面で各教会をサポートしています。その教案である「聖書教育」のホームページに、教会学校の目的が書かれています。私たちの教会では、週報の4ページ目に同じ文章がありますので、読んでみましょう。

『教会学校の目的

教会学校の目的は、その活動を通して、すべての人々がイエス・キリストを信じる信仰告白に導かれ、教会を形づくり、生の全領域において主に聞き、主を証しする生活を確立していくことにある。

日本バプテスト連盟 1971年制定、1999年改定』

 

現在、経堂教会では連盟の多くの教会と同じように、教会学校をお休みしています。コロナのさなかですから、やむを得ないことですが、コロナが収まるころには大人の教会学校を再開したいと願っています。それが、何時になるかはわかりませんが、再開するときのために、執事会では教会学校の持ち方について議論を始めています。どんなことが話題になっているかを紹介しますと、一番目としてコロナの影響です。教会学校の学びを休んでいますが、その代わりに「交わりの時」としていることが大変すばらしいということです。聖書を学んで、証しをするという教会学校の持ち方より、よいところが多いのかもしれません。先生が教えて生徒が学び、そして生徒が決意を新たにするという学校型と比べて、交わりのほうが恵みをより多く与えられるのだと思います。私自身の経験で言いますと、三つの教会で教会学校の先生をしてきましたが、教会学校では交わりを中心として、教える時間よりも学びあう時間に重点をおいていました。もちろん、聖書を学んで知識をつけることも大事ですが、交わりの方が信仰生活を豊かに分かち合うと言う意味で教会学校の目的に近い活動だからです。特に、キリスト者として他の人々と共に生きためには、自分と異なる受け止めや証について聞き、そして自分も思いを言って、証をすると言う、お互いのコミュニケーション、そしてお互いに認め合ってその会話を歓迎しあう事が大事だと思います。

 

さて、今日の聖書の箇所です。

弟子たちは、ガリラヤを通ってカファルナウムに戻る道中『だれがいちばん偉いか』を話していました。イエス様が捕まることを恐れ、人目を避けながら4人で歩いている道中でのことです。イエス様は、この3人の弟子にこれから起こることを打ち明けられていました。

 

聖書には、このように書かれています。

マルコ『9:31 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。』

 

3人の弟子たちは何のことかわかりません。ですから、何のために人目を避けて歩く必要性があるのかも考えませんでした。そして、話していたこととは、「誰が一番偉いか」です。弟子たちはこれから起こる、受難と復活についてイエス様から予告されていましたが、全く関心を持ちませんでした。イエス様の予告に本当の意味で気が付いたのは、イエス様が復活し、弟子たちの前に現れてからのことです。

 

ですから、弟子たちはイエス様が殺されることは全く想定せずに、イエス様の第一の弟子となる事を願い続けていました。今日の聖書のイエス様の教えをまだ、真正面から受け止めていなかったからです。実は、この時に限った話ではありません。イエス様がイスラエルの王様になったときに、「一番の人、つまり大臣にしてほしい」とヤコブとヨハネの兄弟がイエス様へお願いした記事があります。

 

マルコ『「栄光をお受けになるとき、私どもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(10:37)』

弟子たちは、何度もイエス様の受難と復活について話を聞いていました。しかも、その意味が解らないまま、考えることを止めてしまいました。都合の悪い話は興味がないから、自分たちの興味のある事を話していたということです。また、イエス様に「どういうことですか?」と質問もしていません。心地の良いことは話をするけれども、都合が悪い事には耳を貸さないという状態ですが、私たち人間はやはりそういう性質を持っているのでしょう。しかし、責任ある態度と言うのは残念ながら、その真逆であります。都合の悪いことを良く確認して、考えて、行動するならば、都合の悪いことを防止できたり、影響を小さくすることが出来たりするからです。

例えば、津波対策の堤防を考えましょう。海岸の堤防の高さは、町を、人々を守れる高さが必要です。高い堤防は、お金がかかって、そして海岸への出入りが不便で、さらに景観も損ねます。だから、将来に来る津波の高さを「想定」して、住民と同意をとりつけるのが正しいやり方です。しかし、そういう手間やコスト等の都合の悪い話を嫌って必要な作業を省略したくなるものです。そうして、想定を意図的に下げてしまっては、最初の想定通りの高さの波が来てしまうので、人災を招いてしまいます。

 ここで、想定と言う言葉を使いました。皆さんは、想定外と言う言葉を何度も聞いたことがあると思います。科学者の中には、「想定外」という意味をこのように解説する人がいます。「想定外とは、考えつかなかったのではなく、考えることを止めてしまったことを指す」。補足しますと、だれも知らなかったから考えつかなかったことは、世の中の知見を超えている意味で、超知見と呼びます。超知見で知らなかったことそのものに対しては、だれにも責任はありません。一方で、自身の都合による判断で想定を変更したことを隠し、超知見であるかのように説明する。それが、想定外の悪い使い方だと思います。(「想定内」にも悪い使い方があります。想定もしていないのに、後付けで想定内だと胸を張ることです。)

このように、昔から今も相も変わらずに、人は都合の悪い話を知らなかったことにする習性があって、その罪深い姿から抜けだすのが困難なのです。イエス様の弟子たちも、自分が一番になって人々に仕えさせる事には興味があっても、人々に仕えることは考えていないのでした。

 

イエス様は、そんな弟子たちに向けて、こうおっしゃいました。

 

マルコ『9:35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」』

 

イエス様は、弟子たちが話していたことを見透かしていました。弟子たちは、悪意はありませんでした。ただ、イエス様の第一の弟子となりたかったのです。そして、どうすればその栄光を得られるか考えてきました。しかし、イエス様は、一番の人になりたかったら一番最後の人になって、すべての人々に仕えなさいと教えます。弟子たちは何の事かわかりません。イエス様は、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて「たとえ」で教えられました。

 

マルコ『9:37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」』

 

弟子たちは、イエス様の権威によって、人々を支配する者の一番になりたかったと思われます。イエス様は12弟子たちに対して、最後の一番になりなさいと教えました。つまり、「支配する者ではなく支配される側で、もっとも弱い人間。つまり、だれを動かすこともできない人となることを受け入れる人が、神様を受け入れる」ということです。

 

ここで「受け入れる」(デコマイ:δέχομαι)のニュアンスですが、原語には歓迎するという意味があり、「神様の救いと 考えを受け取り、分かち合うような神様のみ言葉(その人の証と考え)を歓迎する人々に使います。」

※出典bible hub:(déxomai) is used of people welcoming God (His offers), like receiving and sharing in His salvation (1 Thes 2:13) and thoughts (Eph 6:17).

 

ですから、イエス様が教えたのは、単純に子供を受け入れて友達となると言う意味ではなく、「最も小さい者の証や言葉から学ぶ者こそ、イエス様を受け入れるのであり、それは神様を受け入れることになる」と言われたのです。こうして、「最も小さい者からも、そしてすべての人から学ぶならば、一番先ではなく、最後の一人となろうとしなければならない」とイエス様は教えておられるのです。

 

私たちは、教会学校をコロナが収まった適切な時期に再開しようと願っています。また、今月は教会学校週間です。連盟の教会学校の目的で説明した通り、聖書を学ぶとか、学校形式にとらわれ過ぎる必要はありません。教会学校の目的に合った、交わりが出来ればと思っています。どうぞ、皆さん自由に考えてみてください。すべての人が先生であり、すべての人が生徒です。そして、聖書のはなしでも、宣教のはなしでも、身近に最近あった事でも、共有したいことを自由に話が出来るのが良いと思います。また、初めての人が参加しやすいように、教会学校の名前を、普段は別の呼び方をしても良いと思います。ティータイム、談話の時間などはどうでしょうか? コロナが収まって大人の教会学校が再開できる時まで、みんなで祈りながら考えていきましょう。すべては、イエス様が備えてくださいます。