2025年 1月 12日 主日礼拝
『神の小羊』
聖書 ヨハネによる福音書1:29-34
今日は、ヨハネによる福音書1章からです。ヨハネによる福音書は、「はじめに言葉があった」という記事にはじまり、そして「人となった神様」、今日の記事「神の小羊」となります。つまり福音記者ヨハネは、福音書の冒頭部分で、イエス様はどんな方だったのかを語ったわけです。今日の記事で印象深いのは、バプテスマのヨハネが「神の小羊」とイエス様を紹介していることです。福音書の書き出しにあたって、伝えたい結論を先に書いたわけですね。他の福音書はと言いますと、マルコによる福音書は、いきなり本文から始まりますし、マタイでは、イエス様の系図と誕生の経緯があります。また、ルカは誕生の詳しい経緯から始まります。マルコによる福音書を基準にすると、マタイも、ルカもイエス様が神の子であることを強調する書き出しです。マタイでは家と血筋に視点を置いており、ルカでは女性や羊飼いの目線で、救い主誕生の経緯が描かれているわけです。ヨハネはどうか?と言えば、「イエス様は天地創造の時からおられた」こと、「イエス様は神様であるのにもかかわらず、この地上に人として生活した」こと、そして、「神の小羊として私たちの罪のために犠牲になった」こと、この三つを強調しています。この三つの言葉は、福音記者のヨハネのイエス様への信仰の証しです。ヨハネの証しをもって、この福音書の書き出したのです。
福音記者ヨハネは、このバプテスマのヨハネの言葉でイエス様を紹介します。
『 1:29~ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。』
ここで使われている、「神の小羊」(アニュス・デイ)は、救い主(メシア)の呼び名です。その意味は、私たちの罪の犠牲となる生贄であります。モーセがエジプトからイスラエルの民を脱出させたときのことです。神様は、エジプトに災いを起こしますが、イスラエルの民が撃たれることがないように、小羊を犠牲にさせました。そこに、「神の小羊」の起源があります。
出『12:3 イスラエルの共同体全体に次のように告げなさい。『今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない。~12:7 その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。12:8 そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。また、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる。』
犠牲となった小羊の血を家の入口の柱と鴨井に塗ることで、イスラエルの民は一人も損なうことなく、救われたのです。この犠牲となった小羊は、イエス様の十字架での贖いを象徴するものです。
イエス様は自ら、私たちの罪の犠牲となって、十字架にかかりました。それによって、私たちに救いをもたらしたのです。「神の小羊」という言葉には、神様がその独り子を犠牲とするために、この世に遣わしたという意味が込められています。イエス様の物語は、神様が私たちを愛するがゆえに、その独り子を遣わした物語なのです。そしてイエス様は、私たちの罪のために犠牲となった「神の小羊」つまり、生贄なのです。
さて、今日の記事の理解のために、この場面の背景と、バプテスマのヨハネの証しの意味を確認したいと思います。
まず、場面の背景です。このころバプテスマのヨハネが活動していたのは、ヨルダン川のほとりでした。そこでバプテスマのヨハネは、人々に悔い改めのバプテスマを授けていました。(ヨハネによる福音書では、ベタニア(1:28)とありますが、マリア・マルタ姉妹のいたベタニア村の事ではなく、ヨルダン川の東側(向こう側)にあるベタニアです。)共観福音書を見ると、ヨルダン川でバプテスマを授けていたヨハネのもとを、イエス様が訪れています。イエス・キリスト御自身がヨハネのバプテスマを受けるために、ヨルダン川のほとりまで来ていたのです。
次に、バプテスマのヨハネの証しの意味? を考えてみましょう。ヨハネの証しは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」との信仰告白でありました。ここで、「世の罪」とはいったい 何を指すのか?また、「神の小羊」は「世の罪」をどうやって「取り除く」のか? を考えたいと思います。
まず、「世の罪」と「小羊」についてです。「自分の罪」と「小羊」には、伝統的な意味合いがあります。ユダヤの神殿では毎日、朝と晩に「犠牲の供え物」として小羊が捧げられました。それは、自分の罪を想い起こして、赦しを神様に願い求めるものでした。
レビ『5:6 犯した罪の代償として、群れのうちから雌羊または雌山羊を取り、贖罪の献げ物として主にささげる。祭司は彼のためにその犯した罪を贖う儀式を行う。』
その律法ができる紀元となったのは、先ほど説明しました出エジプトの記事です。エジプト脱出の時の小羊は「過ぎ越しの小羊」と呼ばれます。それは、奴隷の身分からの解放、災いによる死からの解放を得るための犠牲でした。
そして、「神の小羊」についてです。「神の小羊」とは救い主キリストのことです。私たちの罪を負って犠牲となり、私たちを罪から救いだすのが、救い主キリストの役割なのです。それは、神様が下さった犠牲のための小羊でした。その「神の小羊」は、旧約聖書のイザヤ書57章に「苦難の僕」として」預言されています。
イザヤ『53:6 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。53:7 苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。』
この箇所は、罪の贖いのための犠牲として小羊が捧げられるように、キリストの命が捧げられることを預言しています。神様が、私たちの罪をすべてキリストに負わせたのです。神様は、何をキリストに負わせたか?それは、
イザヤ『53:4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛み~53:5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背き~彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎』です。
こうして、キリストの受けた傷によって、わたしたちはいやされたのです。
こうした伝統的な背景があるなか、イエス様を見たバプテスマのヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言いました。つまりバプテスマのヨハネは、イエス様が救い主キリストであることをその時に知って、罪の赦しはキリストの犠牲の上にあると 証ししたのです。ここで、注意したいのは罪とは何を指すかです。皆さんは、罪と言ったら何を思い浮かべるでしょうか? うそ、ごまかし、心や体や財産、名誉を傷つける など、日常のさまざまな悪さを思い浮かべるでしょう。それは英語でいえば、sinsと複数形になります。しかし、ここで使われているギリシャ語は、単数形で定冠詞までついています。英語で言えばthe sinとなります。その罪とは、「神様に仕えていない事」です。その結果として、数々の悪を引き起こしますから、罪は悪の根源だと言えます。ヨハネによる福音書は、「私たちの内に潜む数々の悪の根源である罪を『取り除く』ために、イエス・キリストが来てくださった」と語ります。実際に、私たちの罪の結果担うべき重荷を、イエス様は代わりに担って、十字架で犠牲になりました。ただ、それは罰をイエス様が引き受けたにすぎません。私たちは、罰から逃れるだけではなく、神様に罪を赦してもらいたいのです。そしてまた、根源にある私たちの罪を取り除いてほしいと願うものです。
では、いったい、「(神の)小羊が(世の)罪を取り除く」とはどういうことなのでしょうか。バプテスマのヨハネは言いました。
『1:31~この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼(バプテスマ)を授けに来た。」1:32 ~「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。』・・・これはどういうことでしょうか?
神様は、バプテスマのヨハネに、キリストの見分け方を告げていました。
『1:33~“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼(バプテスマ)を授ける人である』
つまり、イエス様が救い主キリストであると、ヨハネは証しをしたのです。ヨハネがこの世に来た理由は、キリストに水でバプテスマを授けるためでした。そして、ついにキリストに出会い、神様の計画通りにイエス様に水のバプテスマを授けます。そのときバプテスマのヨハネは、イエス様こそ、聖霊によってバプテスマを授ける人であると告白したのです。
ところで、水によるバプテスマと聖霊によるバプテスマは、どこが違うのでしょうか? こんな理解だと思います。
バプテスマのヨハネによる「水」のバプテスマは、何より「悔い改め」のバプテスマでした。しかし、それは罪を悔い改めるものであり、罪を取り除くものではありません。それに対し、イエス・キリストは、罪の贖いの犠牲となるために、ゴルゴダの丘で命を捧げました。この一度の犠牲によって、「世の罪」は贖われたのです。その上で、罪を悔い改めてイエス様を信じる者には、聖霊のバプテスマが授けられます。私たちが礼典として守るバプテスマは、一生に一度のことですが、聖霊のバプテスマは、一度ではありません。私たちの救い主は、時々ではなく、永久に私たちを聖霊へと導いています。そして、聖霊が働く機会は、いつまでも続きます。「新たないのち」を聖霊は絶えず送り出しているからです。聖霊は、神様の御心を私たちに教えるだけでなく、神様の御心に生きる力をも与えてくれるのです。
教会で行なうバプテスマも、形の上ではたしかに「水」のバプテスマです。けれども、イエス・キリストへの信仰がある貴方には、生ける主イエス・キリストが寄り添っていてくださいます。イエス様の内には聖霊がとどまってますから、そこに聖霊が働いて「聖霊によるバプテスマ」となるのです。
一般に罪の問題は、誰しもできれば避けて通りたい問題です。しかし、私たちは いつまでも、しらばっくれたり、ごまかしたりしてはいられるわけがありません。罪の重荷を抱え込んでは、平安はやって来ないからです。まずは、「罪を犯した」 と気づいたら イエス様に告白して、祈り、そして、楽になりましょう。犯した罪は、消えません。しかし、イエス様が神様にとりなすので、神様の前では帳消しになるのです。その時、聖霊が働きます。イエス様に罪を告白し、そして聖霊が働く。それが、聖霊によるバプテスマなのです。日々、私たちは罪を犯します。それが、聖霊が働く時に導かれるならば、かえって幸いなことかもしれません。だから、毎日毎日、罪を悔い改め、聖霊によるバプテスマを受け続けてまいりましょう。