1.終末の日の裁きと救い
エレミヤ書31章27-30節の二つの詞は、イスラエルとユダの家に関する終末的な預言です。(「見よ、・・・日が来る」という終末預言の定式)神様は、エレミヤに、諸国民に対する預言者となる権威を委ねられましたが、彼に与えられた使命は、「抜き、壊し、破壊し、あるいは建て、植えるために」(1章10節)というものでした。エレミヤは悔い改めないで罪を犯し続ける民に、「抜き、壊し、破壊する」神様の審判を告げてきました。そして、捕囚とされた者には、新しい救いを明らかにする手紙を書きます。それが28節にある『今、わたしは彼らを建て、また植えようと見張っている』との神様の言葉です。
しかし、捕囚の民には一つの疑念がありました。捕囚が彼らの父たちの世代が犯した罪、またその先祖たちの罪に対する審判であることは、よく理解できました。また、その罪と関係ない世代が、その罪の連帯責任を負うべきことも了解することができました。しかし、それをいつまでも負わねばならないということに納得できないのです。
『先祖が酸いぶどうを食べれば/子孫の歯が浮く』
という格言には、神様の裁きのあり方に対する人々の不満が表れています。酸いぶどうを先祖が食べたからと言って、子孫の歯が浮くのは理不尽で、もう誰もそのようなことは言わなくなっています。酸いぶどうを食べた本人だけが歯が浮くべきだと、神様ご自身も言います。しかし、それは「その日」でありますから裁きの日を待たなければなりません。裁きの日には、それぞれが自分の罪のために死ぬべきなのです。
2.新しい契約
この短い記事(31:31-34)は、エレミヤ書の最も重要な箇所です。ここで約束された新しい契約は、イエス様の生涯と苦難において、その成就したと新約聖書は見ています。イエス様は、十字架の上にご自身を捧げる時に、新しい契約がはじまることを告知しました(マルコ『14:24 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』)。このようにエレミヤ書に記されている「新しい契約」は、新約聖書の契約理解の根幹に関わるものです。
『31:31 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。』
神様が告知する「新しい契約」の背景にあるのは、シナイ山で神様とイスラエルとの間で始めた契約です。出エジプトの時結ばれた契約のために必要なことは、律法、即ち「契約の条項」に対するイスラエルの従順でありました(エレミヤ書11章1-8節)。契約の律法に従う者に「祝福」が、しかし、従うことに失敗するならば、「裁き(呪い)」が伴うのです。申命記から列王記下までは、イスラエルが終始一貫して、契約と一致した生活に失敗したのか、そしてどのようにして、イスラエル王国とユダ王国が神様の裁きを受けたのかを記しています。
イスラエルが神様の選んだ民として、常に問われたのは、律法に対する服従でした。しかしながら、イスラエルの過去を振り返ってみると、イスラエルの民が律法を拒んだだけでなく、律法に従うことが困難という事実です。過去を振り返る預言者、多くの聖書記者の認識において共通しているのは、イスラエルにとって最大の失敗は、イスラエルが律法に従うことができなかったことです。イスラエルが、まさに聖くはないとすれば、神様の聖なる民でありえないのです。
エレミヤの示すこの認識は、「イスラエルが自らこの現状を変え得ないとするなら、神様の恵の力があらわされる以外に、彼らが再び正しい者として歩む可能性は閉ざされたまま」であるということです。そこでエレミヤは、主の言葉を明らかにします。
『31:33 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。』
神様が来るべき日に結ぶ新しい契約は、「神様自身の恵みによって、自分の民に必要な変化を起こさせる」約束だ、と言うことです。「古い契約」では、神は自分の意思を民に表わすために、石の板に律法を書き記しました。しかし、イスラエルはこれにつまずきました。神様の律法に服従することに失敗したのは、神様の律法に服従しようとする意思も能力も、彼らにはなかったからです。しかし神様は寛大に赦そうとして、新しい契約の恵みを約束しました。
『31:34 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。』
人々は、もはや律法によって、神様に対する認識を新たに呼び起こす必要がなくなります。律法はこのようにして民の間にはいらなくなるからです。これは、「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」という赦しの言葉と共に告げられています。悔い改める心を持たない、そして、持てない、私たちに、罪の赦しを宣言し、律法に服従する意志と能力を持つ心を彼らの中につくり出す神様の恵の力によって、すべてのものが神を「知る」ように変えられるのです。