2025年 6月15日 主日礼拝
『キリストの権威』
聖書 使徒言行録4:1-12
今日の聖書は、使徒言行録から、ペンテコステ後の記事です。聖霊が降ったのち、弟子たちはイエス様の伝道命令に従って、エルサレムでイエス様のみ言葉を語り、そして人々を癒していました。3章には、その様子が、書かれています。
使徒『3:1 ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。』
エルサレムの神殿では、九時、十二時、三時に祈りの時間が守られます。特に3時は犠牲を捧げることもあり、多くの人々が集まったようです。使徒のペトロとヨハネが、連れ立って神殿の境内へ上ったことが、この物語の始まりです。
ペトロは、神殿の婦人の庭と呼ばれる中庭の入口で、物乞いに出会いました。彼は、生まれながら足が不自由でした。そこは、美しい門と呼ばれる門の前です。美しい門の前で二人の使徒と目が合ったその男は、何かもらえると期待します。そこで、奇跡が起きました。それを聖書では「しるし」と呼びます。
使徒『3:6 ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」』
すると途端にこの男が躍り上がるように立ちました。そして、この2人の使徒たちについて行ったのです。その様子を見た群衆は驚きます。
エルサレムの神殿の中庭は、異邦人の庭と呼ばれる大きな外庭に囲まれています。名前の通りに、この庭までは異邦人も入れるのです。ここで言う異邦人とは、異国の人の事ではありません。ユダヤ教徒ではないという意味です。そして、異邦人には「主を恐れる者」も、「主を礼拝する者」もいます。ユダヤ教に改宗はしていないユダヤの神様を信じる者や、ユダヤ教の礼拝に加わる者のことです。そういった人々や、異教徒は「美しい門」から神殿の中庭には入れないのです。ですから、ユダヤ教に改宗していない人は、自分の罪のために犠牲を捧げる時も、美しい門から2つの中庭越しに祭壇を仰ぎ見るしかありません。そういう意味で、3時の祈りの時は、この美しい門の外は、大勢の人々で賑わうわけです。午後3時から夕方までのたった2時間くらいの間に、ペトロとヨハネが教えたことによって5000人もの人々が「イエス様を信じるようになった」ほど、大勢が福音を聞いたのです。(4:4) 二人の弟子が教えた異邦人の庭には、様々な国や地域から巡礼や観光で来ているわけですが、何万人という人々が、二人の教えに耳を傾けていたということだと思われます。
ところで、そんなにも混み合っているのに、祭司たちは使徒たちの行動を見張っていたのでしょう。やがて、ペトロとヨハネの教えをやめさせようと、神殿の祭司たちや神殿守衛長とサドカイ派の人々がやって来ます。サドカイ派とは、ユダヤ教の一派であります。その多くは、祭司や上流階級ですので、自分らの権威を誇っている人たちです。彼らの教えの特徴は、霊や天使そして復活を否定することです。ですから、ペトロとヨハネが境内で教えていたイエス様の復活については、神経を尖らせていたと言えます。
そもそも神殿の中で、使徒たちが民衆に教えているだけで、彼らの自尊心は傷つけられていました。サドカイ派の祭司こそが教師の中の教師だと思っているわけです。しかも、無断で「イエス様が死者の中から復活した」ことを宣べ伝えていたのです。それで、祭司たちは直ちにペトロとヨハネを捕えて牢に入れてしまいます。思い起こせば、二人が捕らえられたこのソロモンの回廊では、イエス様が民衆に囲まれて、石で打ち殺されそうな(ヨハネ10:31)ときもありました。そういう事実からも、ペトロとヨハネは、命がけでイエス様の福音を伝道していたと言えます。
捕らえられた二人の弟子を裁くために、翌朝、最高法院の議員たちや、長老や、律法学者たちが召集されました。最高法院のメンバーに加えて、大祭司の親戚まで集めるという大会議だったわけです。ここに出てくるアンナスは前職の大祭司ですが、現職の大祭司カイヤファの舅であることからでしょうか? 権力の座に居続けていたようです。彼は、準備させたとおりに裁判を進めさせます。
『4:7 そして、使徒たちを真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問した。』
この尋問は、大祭司たちが知恵を絞ったものです。そもそも、生まれながら足の不自由な男が歩けるようになったことは、認めざるを得ません。群衆が、それを見ていたからです。そこで、神殿の中と言う大祭司の権威の下で、「無許可で癒しと教えを行った」ことを咎める事としました。そうすれば、咎める根拠も、裁く権限もあるわけです。そして、「許可を得てからやりなさい」との判決を下してしまえば、少なくとも神殿の中での使徒たちの活動を制限できます。もちろん、使徒たちは従うわけがありませんが・・・彼らが言いたいのは、「大祭司に権威がある」ということです。だから、神様の権威によって行われている癒しを「しるし」として受け入れないで、「その癒しの権威を与えたのはだれか」と問います。 それは、言い換えると「神様からおの権威は大祭司にある」という主張です。そして、使徒たちが権威を持っていると答えるならば、それは、神様からの権威ではない と断定するでしょう。神様と人々を仲介する役割を負うのが大祭司だ と彼らは思っています。彼らは「自分以外の誰にも、人を癒す権威を与えていない」と主張しました。例えば、人々が神様に対して誓いを立てるのも、いけにえを捧げるのも、大祭司の名で行うからです。だから、祭司たちは、大祭司に特別な権威があると、思い込んでいたのです。
このように、祭司たちは、使徒たちをとらえて咎めようとしました。ペトロは毅然として、権威を下さった方の名を答えます。
『あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。』
さて、生まれながら足が不自由だった男を、祭司たちは助けようとはしませんでした。また、そもそも助けることもができませんでした。ですから、大祭司が与っている権威は、使われていないだけではなく、癒す力も持っていなかったのです。それを彼らは認めません。だからペトロは、「イエス様を殺した 大祭司たち」にその事実を突き付け、イエス様に神様の権威があることを示したのです。・・・その殺されたイエス様は、復活しました。そして、イエス様を殺した大祭司たちに、「イエス様の権威によって、生まれながら足の不自由な男が癒された」 と宣言したのです。それは、「あなた方は、この明らかなイエス様の権威を認めないのですか?」 そう、問いかけているようです。
祭司たちは、その権威を認めたくはないでしょう。神殿では、日常的に、病から快復した者の感謝が捧げられます。また、祭のたびに民衆が喜び祝ったりと、多くの人々が神殿を心のよりどころとしていました。また、祭司たちの祈りや、人々にかける言葉や教えによって、助けられた人たちも多いことと思います。しかし、それは神様が導いていることです。大祭司の権威で、人々が幸福になるのではありません。大祭司は、人ですからそこに限界があります。とは言いながら、人は、人に平安をもたらす言葉を言うことができます。だから、祭司たちが信徒一人一人に心を尽くして、触れ合い、尊敬もされていたでしょう。しかし、それは祭司たちに権威があるからではありません。すべては、神様の権威なのです。そして、私たちの罪の身代わりとなって死んだ方。三日目によみがえられた方。それはただ一人。イエス様だけが、神様にとりなすことができます。死に打ち勝った救い主イエス・キリストだからこそ、その権威によって神様に肉体と魂との癒しをとりなす力が与えられているのです。
『あのナザレの人、イエス・キリストの名』 こそが、最高の権威なのです。
ペトロとヨハネは、イエス様が死者の中から復活したことについて神殿で教えたので、サドカイ派の人々に逮捕されました。ところが最高法院での尋問での争点は、「誰が教えることを許可したのか?」と、「誰からその癒しの権威を与えられたのか?」という二点だけでした。3章を見ると、生まれながら足の不自由だった男が歩けるようになった事の起こりは、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(3:6)との命令です。最高法院は、このことを無視しているのです。そしてもう一つ、足の不自由だった男の信仰が隠されています。彼は、「イエスキリストの名」を、受け入れて信じたのです。癒されたい。癒してください。イエス様を信じます・・・ と。このことを憶えましょう。ペトロも群衆にこのように宣言しました。
使徒『3:16 あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。』
さて、皆さんは、同じようなイエス様の言葉を思い出さないでしょうか?。
ルカ『8:48 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」』
それは、12年も病の治療を受け続けた挙句に全財産を使い果たしてしまった女性が、ナザレの人イエスを信じ、その服の房に触れた時のことです。
他にも聖書には信仰による癒しが、記されています。イエス様自身が神様による癒しを、信仰に基づく救いの恵み と教えているのです。死に打ち勝ったキリストの救いは、罪の赦しに留まらず、復活の力をもって肉体をも癒す力を持っているのです。
かつてイスラエルの人々をエジプトの国から救い出した神様は、彼らを救い出したばかりではありませんでした。病からも守りました。病にかからないこと、健康であることも神様の恵みであります。生まれながら足が不自由な男に、神様によって、救いと癒しの業が起ったのです。この時も、ペトロを通してイエス様の名による癒しが行われ、目撃した多くの人々も信じて救われました。
わたしたちは、イエス・キリストの名によって救われるのです。ナザレの人イエス・キリストを信じる信仰こそが、キリストの権威です。そして、イエス様を信じる人が救われ、また癒されるのです。