2024年 11月 10日 主日礼拝
『信仰は神様の恵み委』
聖書 ローマの信徒への手紙4:13-25
今朝のみ言葉は、ローマの信徒への手紙です。使徒パウロが、ローマの教会に送ったこのかなり長い手紙の特徴は、神学を語っていることです。当時、ユダヤ人と異邦人がいるローマの教会で使われている聖書は、ギリシャ語の旧約聖書でした。この聖書は、紀元前3世紀から紀元1世紀にかけて編纂された、ギリシャ語の70人訳聖書です。【この70人訳とは、プトレマイオス朝のエジプトが編纂したもので、ユダヤ側からも12部族から6人ずつ学者を派遣した(厳密には72人訳)由来があります。】エズラが、復元したヘブライ語の律法を神殿で読んだのが、紀元前444年です。そのわずか200年後に、ヘブライ語の聖書とアラム語の聖書をもとに、ギリシャ語の聖書の編纂が始まりました。というのは、ユダの国は、バビロンやペルシャの支配下となって、アラム語が公用語でした。そして、ローマの支配下になると公用語はギリシャ語となり、ギリシャ語の聖書が必要だったのです。
当然ながら、当時のローマ教会では、公用語のギリシャ語で礼拝が守られています。そして礼拝に使うのは、ユダヤ人への救いのメッセージであるギリシャ語の聖書です。また新約聖書は?と言うと、そのころあったのは、パウロ書簡(Ⅰテサ、Ⅱテサ、Ⅰコリ、ガラ)とイエス様の語録です。
パウロがこの手紙を書いた理由は、ローマの教会内でのユダヤ人信徒と異邦人信徒の間の違いにありました。異邦人側の方が多いので、その違いは無視できません。少数派のユダヤ人たちは、聖書に記されているとおりに、「割礼を受け、律法を守らなければ救いはない」と教えられてきています。一方で、ユダヤの伝統を知らない異邦人は、伝統によらずに素直に聖書やイエス様の教えとパウロ書簡を読みます。だから、異邦人の信徒は「イエス様は、私たちに割礼を受けなさい」、とも「律法を守らなければ救われない」とも言っていないことを知っています。パウロは誰もが納得するように、伝統からではなく、聖書つまり旧約聖書をもとに福音を説きました。その説明の背景にあるのは、ユダヤ人の父であるアブラハムの信仰です。
パウロがここで参照した聖書 「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」、「あなたの子孫はこのようになる」、「それが彼の義と認められた」ですが、まず一か所目を確認しましょう。読みますから聞いてください。
創世記『17:4 「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。17:5 あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。』
二か所目三か所目は、創世記の15章から続けて参照しています。
創世記『15:5 主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」15:6 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。』
この、アブラハム(当時アブラム)の記事からパウロは、語ります。
ローマ『4:13 神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。』
パウロは、アブラハムが律法を守ったから義とされたのではない と言っているわけです。義とされる、義しいとされるのは、律法を守るという「行い」によるのではなく、ただただ神様を信じることによるとパウロは宣言したのです。その根拠は、先ほど参照しました創世記の記事です。
創世記『15:6 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。』
「義と認める」とは、あなたの罪が赦される、そしてあなたの魂が救われるという意味です。たしかに、アブラハムは神様の命令に従ってきました。ときとしてその命令は過酷であります。その最たるものは、この命令です。
創世記『22:2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」』
アブラハムは、この理不尽な命令にも従いました。これをもとにユダヤ人たちは、「神様はアブラハムの「服従」をもって義しいと認めた」、 と 理解します。そのためユダヤ人の信徒は、救いは「神様に従う」という行いによって与えられる。「律法を守ることが救いへの道」だと思い込んでいます。しかしパウロは、「それは違う」と主張します。そこで、パウロはアブラハムが義と認められた理由を、(旧約)聖書を通して説明するわけです。
アブラハムの物語は創世記12章から始まります。彼はメソポタミアに住んでいましたが、75歳の時に神様に召され、故郷を捨てて旅立ち、約束の地カナンに導かれました。神様はアブラハムに約束します。
創世記『15:5 主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」15:6 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。』
実は、この神様の約束は2回目でした。子孫の繁栄を約束した神様ですが、この1回目から2回目の間およそ10年の間に、アブラハムには子供ができませんでした。そして、年だけは数えていきます。85歳と言うことになりますが、それでもアブラハムは、この2回目の神様の約束を信じます。しかし、子供はなかなか与えられず、アブラハムと妻サライは次第に年を取っていきます。アブラハムに子供が生まれる可能性は、日に日に低くなっていきます。そんななかでも、アブラハムは神様の約束を信じたのです。創世記は語ります。
創世記『15:6 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。』
パウロは、アブラハムの信仰について言います。
『4:17 ~死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。』
信仰とは、良いことを祈り求めることではありません。起こり得ないこと、例えば死者がよみがえるとか、何もないところからこの天地を創造する、それらにかかわる神様の言葉を信じることであります。つまり、「信仰とは、神様の存在とみ言葉が真実だと信じる事」です。そこには、私たちの常識では理解できないことも含みます。理解できなくても、「神様の言葉が示されたならば、必ずそうなる」と信じる。それが信仰です。神様の存在を信じる。そこには、すべてのものを司どる神様への畏れがあります。ところが、その畏れを抱きながらも、人間は自分の思いに引きずられてしまいます。なぜなら、私たちが罪人だからです。私たちの罪は大きいので、私たちのできる小さな良い行いだけでは贖うことができません。しかし、聖書は言います。その罪ある者であっても、信仰によれば神様は義と認めてくださるのです。だから、「神様が示すことは、成就する」と信じる。その信仰が必要で、またそれで十分なのです。アブラハム自身、このとき神様の言葉を信じました。ところが、いざ、妻サライに男の子が生まれる(創世記17:16 )と告げられると、アブラハムはひそかに笑いました。99歳だったからです。しかし、神様は、このアブラハムの反応を罰したりせずに、約束通りイサクを授け、そして子孫を増やしました。この幸いつまり、「子供のいないアブラハムへの救い」は、アブラハムの行いが良かったから与れたわけではないのです。「自分ではどうにもできないような無理なことでも、神様は必ず言葉通りにする」その信仰によって神様に義と認められたのです。ですから、救いは、行いの良い者や、律法を守る者に与えられるのではなく、ただ、「すべては神様のみ言葉どおりになる」と信じる者に与えられるのです。
ところで、ユダヤ人は、割礼を救いの条件と考えていました。ところが、アブラハムが割礼を受けたのは、イサクが生まれるとの告知があった後のことです。つまり、アブラハムは、「義と認められた」あとに割礼を受けたことになります。割礼は、この事実からも「義と認められる」条件ではないのです。だから、行いのことで心配することはありません。「神様の御心のままになる」ことを信じる。それが、私たちの信仰です。私たちは、行いによって義とされるのではありません。神様は、「み言葉を信じる者を、義とされた」のです。
パウロは続けます。『4:18 彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。』
この言葉は、「アブラハムが望んだわけではなかったが、アブラハムは多くの人々の父になる、との神様の言葉を信じた」ことを意味します。実際イサクが生まれる時の年齢を考えると、アブラハムは100歳、妻のサライは90歳(創世記17:17)でした。とても子供を持つ年ではありません。
パウロは私たちに問いかけます 「100歳のアブラハムと90歳のサライに子供を与えた神様の力を信じなさい。そして、十字架で死んだイエスを復活させた神様の力を信じなさい」と・・・。 パウロは続けます。
『4:23 しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、4:24 わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。4:25 イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。』と
信仰は神様がくださる恵みです。その恵みは、私たちの生活の中にあります。「復活のイエス様を信じる」とは、「すべてを創造された神様」を信じることです。そして信じる者には、「生きる希望」が与えられます。このみ言葉を準備している中で、私は本当に恵まれました。だから、最後に行いを呼びかけてお話を締めることはいたしません。ただ、不可能なことでもみ言葉の通りにする、神様がおられることをお知らせしたいのです。