1.離婚の条件
『10:2 ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。』
群衆がイエス様の所に集まっていると、再びファリサイ派の人々が試そうとします。 イエス様を試みる、とありますが、二つの試みがあります。一つは、イエス様が、かつてのバプテスマのヨハネと同じように、ヘロデ・アンティパスの不純な離縁と結婚を批判させることです。イエス様に離縁について厳しいことを言わせれば、ヘロデに捕らえられる と期待したのかもしれません。そしてもう一つは、ユダヤ教の中でも離縁についてはとても意見が別れますから、イエス様の言葉に反対の人が出てくることを期待したのです。
『10:3 イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。10:4 彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。』
申命記(24:1-4)には、たしかに離縁状を書いて、離縁すると言う手順は決められていました。しかし、その動機は何でもよいと言って、離縁を推奨したものではありません。やむを得ないとき、神に恥ずべきことでないなら、離縁の手続きができるとしたものです。
2.結婚を目的の離婚
『10:5 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。10:6 しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。10:7 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、10:8 二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。10:9 従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」』
そもそも結婚とは何なのか?その本質的な部分をイエス様は言います。 「どのような条件ならば離縁ができるのか?」との掟をモーセが書いたのは、その掟を民がかたくなに求めたからだと イエス様は言います。そんな条件は重要でありません。なのに、どうすれば離縁しても咎められないかを突き詰めるのは、そこに理由があるからです。離縁は「ほかの人と結婚するための手段」であるならば、そして、それを実現したいのであれば、無理をしてでもその条件を整えようとの動機が働きます。そもそも、そういう問題となることが、神様のみ旨に沿うものではありません。その本質的な部分は、「心」なのです。結婚をしている中で、経済的なこと、子供の教育のこと、いろいろなことが問題や課題となっていきます。そんな時に、その本人たちの心が、いつの間にか頑なになるのです。ここで大事なことは、夫婦の関係ではなく、夫と神様、妻と神様の関係なのです。自分自身が神様を第一にしているかどうか?であります。心を柔らかくする。聖霊の導きに従順であるための唯一の方法は、自分自身の心が神様に明け渡されていることです。イエス様は、創世記を取り上げます。神が二人を一体とさせるものであり、それを引き離すのは御心ではないということです。この結婚という制度は、神様が造ったのです。それがこの世の他の制度の根幹にあります。
3.再婚による姦淫
『10:10 家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。10:11 イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。10:12 夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」』
これは、再婚についての戒めです。これはとても厳しく聞こえます。離縁して、再婚すれば姦淫であるということです。これは離縁したといっても、それが神様の前にあって本当に離縁が成り立っていない。だから、まだ初めの妻に対して結婚している状態であり、再婚したとしても初めの妻に対して罪を犯しているということです。
ここでも、先ほどの本質的な議論があります。なぜ相手と離縁したいのか?。 その動機の多くは、「既にほかの男あるいは女に心が傾いているから」です。心の中で、自分の妻あるいは夫とうまく協力し合っていこうという努力を放棄して、他の男あるいは女に心を向けてしまっている。そこに、自分と神様との関係が切れているからこそ、離縁を考えてしまうのです。結婚は、自分と神様の関係の一部であり、また、相手と神様の関係の一部なのです。
しかし、すべての離婚がいけないと言うことでしょうか?。そこには、「全ての再婚者は姦淫の罪を犯したのか?」また、「再婚した者はその結婚を破棄して、元の人に戻るべきなのか?」との問題が出てきます。まず、離縁は罪なのでしょうか?。 多分、罪を犯している離縁のほうが罪のない離婚よりはるかに多いでしょう。少なくとも、罪を犯したかもしれないとの自覚をもって、そして、さらに罪を重ねないように努力をしているならば、罪を犯してしまった人々を神様は憐れんでくださるでしょう。
聖書の記事で有名な離縁して再婚した人物には、ダビデ(正確には重婚)がいます。バテ・シェバと姦淫の罪を犯して、バテ・シェバの夫ウリヤを殺す罪も犯しました。ダビデは預言者ナタンによって罪を指摘されました。そして、ダビデは悔い改めました。その二人の間に生まれた赤ん坊は死にましたが、その後に彼はバテ・シェバのところに入り、再び彼女は妊娠しました。そして生まれたのがソロモンです。そしてイエス様の父ヨセフは、ソロモンの末裔です。ここに神様の憐れみがあります。ダビデは、たとえ姦淫の罪の結果であっても、その結婚したバテ・シェバを愛したのです。そして、他の妻たちと同じように、バテ・シェバを愛しました。そして神様は憐れみ、後にイエス様の父となるヨセフを生み出すことにされました。これが、神様の憐れみです。神様は恵んでくださいます。私たちは心を砕き、へりくだって、神様の憐れみと恵みによって生かされているのです。
ほかに、姦淫の現場で捕らえられた女もいます。彼女に対しても、イエス様は「わたしも、罪に定めない」と赦し、また「また罪を犯してはならない」と諭しました。
ヨハネ『8:10 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」8:11 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕』