2025年 4月 20日 主日(イースター)礼拝
『キリスト・イエスに結ばれて』
聖書 ローマの信徒への手紙 6:1-11
イースターおめでとうございます。主イエス・キリストは、私たちの罪を背負って十字架にかかり、その死からよみがえりました。この出来事によって、私たちの数えきれないほどの罪が赦され、そして私たちは義とされたのです。到底義しくはない私たちですが、神様は、「イエス様の犠牲によって私たちの罪を帳消しとした」のです。そして、さらに神様は、永遠のいのちという恵みを与えて下さいました。
今日の聖書は、『6:1 では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。』という問いかけで始まっています。
このローマの信徒への手紙を書いたパウロは、「人が罪から救われるのは、人間の良い行いや努力によるものではない」と教えています。そして、ただ「キリストを信じる信仰によって義とされる」と教えました。
人は数えきれないほど、罪を積み重ねています。そして、その罪をどうすることもできません。それなのにすべてが赦され、義と認められる とパウロは言います。しかし、私たちは過去の罪が赦されただけで、神様は罪を犯すことを許可してはいないのです。ですから「どうせ罪は赦されるんだから、安心して罪を犯そう」などと勝手な解釈をしてはいけません。そこでパウロは、キリストの十字架の死とよみがえりについて、問かけました。
『6:1 ~恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。』
これは、「自分の罪のゆえに、その罪を悔い、イエス様の救いを信じた結果、自分はキリストの恵みに与った。だったら、もっと恵みに与るために、罪を犯し続けた方が良いのか?」という疑問です。そして、直ちに否定しています。
『6:2 決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。』
パウロは、「罪に対して死んだわたしたち」といっています。一体、「罪に対して死んだ」とはどういうことなのでしょう? それは、罪の支配下ではなくなったのだと思います。罪の支配下ではなくなったので、罪からの影響を無くすのです。罪との関係を終えるのです。つまり、イエス様を信じる私たちは、イエス様の支配下にあります。そして、イエス様の恵みのみ言葉の中で生かされているのです。
『6:3 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼(バプテスマ)を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼(バプテスマ)を受けたことを。6:4 わたしたちは洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。』
パウロは、信仰によってバプテスマを受けた人に、このように勧めました。「あなた方は生まれ変わった」このことを自覚するように と。バプテスマによって、今までのあなた方は死んだのです。そのとき、キリストの犠牲によって、新しい命を得ました。バプテスマは、新しい命を得るためだったのです。
ところで、「バプテスマを受ける」(βαπτίζω:バプティゾー)とは、言葉的には「浸す、沈める」という意味です。たとえば、この教会は、水に沈める方式のバプテスマを大事にしているので、バプテスト教会と名付けられています。なぜ大事なのかと言うと、水に沈めるバプテスマは、キリストと一つになること、キリストとの一体化を表しているからです。3節に「キリスト・イエスに結ばれるために」とあります。この部分はバプテスト教会にとって大事な記事です。ここの節のギリシャ語を忠実に訳してみましょう。「バプテスマによってキリスト・イエスに属する者となった私たちは、キリスト・イエスの死の中に沈められた」となります。ここに、私たちの信仰理解があります。私たちは、罪の中にではなく、今やキリストの中にいて、キリストと一体となっている。キリストのうちにある私たちは、キリストが死んだときに、罪に対して死んだのです。そして、「キリストとともに葬られ」ました。それは、『6:4 ~キリストが御父(おんちち)の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。』
バプテスマを受けた人は、一度罪に対して死んで、キリストの命を受けて、新しい人とされました。罪に支配されていた古い自分は、キリストとともに、十字架で死んで、墓の中に葬られました。今や、キリストとともによみがえったので、新しい命を頂いているのです。ですから、罪に生きるのではなく、キリストと一体となって新しい命に生きるのです。
さて、キリストと一体とはどういうことなのかヨハネによる福音書には、こんな有名な聖句があります。
ヨハネ『15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。』
イエス様がぶどうの木であることならば、イエス様が根であり、枝であり、小枝であり、葉であり、花であり、実であり、すべてであるわけです。私たちは、イエス様と自分を分けて考えていないでしょうか?イエス様はぶどうの木、私たちは枝であると。でも、よく考えてみると、イエス様がぶどうの木であるということは、当然ながら、イエス様はぶどうの木の枝でもあるわけです。と言うことは、イエス様はぶどうの木の幹まで、そこから先は私たち、という関係ではないのです。イエス様はぶどうの木のすべてで、私はその一部。私とあなたは、イエス様の中にあって一体の関係にすでになっている。そのことに気づかされます。私たちは、すでに、キリストの中にあるのです。
『6:6 わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。』
パウロはキリストとの一体性を強調します。ここで「古い自分」とは、自我に閉ざされた自分と考えたらよいでしょうか?。その結果として、行き場のない自分。そして、罪の奴隷であった自分があります。その行き場やよりどころのない自分をどうすることもできません。だから、キリストと共に私たちも十字架にはりつけにしてもらうしかなかったのです。それが私たちの受難の出来事でした。・・・しかしそれは、恵みをもたらしました。私たちは、罪を悔い、そしてイエス様を信じ、今、キリストによる平安をいただいています。
『6:7 死んだ者は、罪から解放されています。6:8 わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。』
古い自分が十字架につけられなければならなかったもう一つの理由が、罪の奴隷からの解放です。奴隷は、主人から束縛されて、自由がありません。奴隷が解放されるのは、死ぬ時だけです。ですから、罪の奴隷が死ぬ時とは、イエス様の十字架の時です。イエス様の十字架の犠牲と復活を信じた時、奴隷として仕えてきた古い自分は死に、神様に仕える人となります。つまり、キリストと共に生きる人として生まれ変わるのです。
『6:9 そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。6:10 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。』
キリストは、ただ一度私たちの罪のために死にました。そして、復活したキリストは、すでに死から解放されているのです。復活して今生きておられるキリストは、神様のために生きているのです。
ここで「生きている」ですが、ここに書かれているのは、肉体的な命のことではありません。生きているとは、神様のために、神様の導きに従って歩むことです。
『6:11 このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。』
パウロは、このように言いました。古い自分は死んで、罪という名の古い主人とは関係がなくなりました。そして、今はキリストの内にあります。だから、私たちの今の主人は、神様なのです。イエス様の復活によって、私たちも神様のしもべとしての新たな人生が始まったのです。なぜなら、私たちはすでにキリストの内にいるからです。神様は、あなたをキリストの内にある者としてくださっています。イエス様が死んだとき、あなたも死んだのです。そしてイエス様が復活したとき、あなたも生かされました。
ところで、私たちは、新しく生まれ変わった自分がここにいるのに、過去を振り返って古い自分を見つめては、「完全な自分になろう」と努力していないでしょうか?。また、自分の努力で古い自分を十字架につけ、裁こうとしていないでしょうか?。・・・どちらも、正しいようで、そうではありません。なぜならば、私たちのこの願いは、神様がすでに適えてくださっているからです。イエス様の十字架の出来事は、このためにあったのです。そのことに感謝し、イエス様の十字架にゆだねていきましょう。古い自分が死に、新しい自分が既に与えられているのですから、さらに自分の力で手に入れようとする必要はないのです。神様は、私たちのために、信仰と言う命を与えてくださっています。キリストの復活は、私たちにとって新しい自分が生まれたことを示します。だから私たちは、新しい自分の誕生日としてこのイエス様の復活した日をお祝いします。その恵みに感謝して、神様を賛美しましょう。